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群馬県高崎市

長根城

2009年09月05日

戦国時代この左手奥に長根城本丸があり、周囲に堀をめぐらし、南方より西に外堀があった。長根衆が居城し、長根氏、小河原右馬助等の武将が居り、はじめ平井上杉氏、後に武田氏に従った。四百余年昔の天文〜天正の頃である。廃城後城跡山不動院光円寺が建てられ明治8年長根学校となり、同42年以降、不動堂を残すのみである。
(看板資料より)

長根城は長根氏の居城で城坂を境に東に本丸、西に二の丸を持つ一城別郭の構えである。本丸は東西90m南北70mの長方形で周濠を巡らし二の丸の西方には外濠が一部昔のまま残る。長根衆が史上に活躍したのは天文から天正に至る50年程。はじめ平井上杉次いで武田更に北条と所属を替えたのは所領を守る為であった。長根氏、小河原右馬助重清の起請文は生島足島神社に残り縫殿助の諦叟印殿の塔は小河原、吉田両氏により本丸跡に建立された。長根衆の武将に雅楽助、縫之助や神保、茂原氏等が居り、石倉砦の争奪、長篠の合戦、膳城、神無川の合戦等に出陣した。
天正の末廃城、後年本丸跡に城跡山不動院光円寺が明治8年から42年まで長根学校が置かれた。
(看板資料より)

本丸付近

鏑川南の段丘端に築かれた長根氏の城である。長根重清は小幡信実(信貞)の弟で、氏を小河原と改めたが一般には長根と呼ぶ。武田信玄に従い、永禄9(1566)年には石倉城の守備についている。天正8(1580)年8月28日、武田勝頼の膳城素肌攻めのおり討死し、その子信盛は武田勝頼滅亡ののち、長根に帰った。天正18年、長根縫殿助(重清)が石倉城で松平康国を刺殺したというのは小林右馬助が正しい。文禄元(1592)年、松平家治が長根に封ぜられた時の陣屋は、長根城跡の西北300mの「城の内」である。
 本丸は崖端にあり80m×60m、囲堀があって、表虎口が南に開き、西側の高さ3mの台から前面を側防する。この台は周囲に空掘を巡らすようにみえるが、本丸との間の部分は後代に掘られたのかもしれない。北虎口は斜坂で堀底に下る。東北の長根神社付近はささ郭であろう。二の丸は本丸の南から西を巡り、280m×100mの大郭で、外堀の西半部と土居、東端部の堅堀跡が残る。中央追手虎口は喰違い構造であろう。
(日本城郭大系より)

長根神社

長根城は探すのに苦労しました。資料によれば長根神社の裏側に本丸があるとのことでしたので裏側にまわってみると周囲は畑でしたが、石垣のようなものも見えました。公民館まで行ってみるとちゃんと城跡の碑や説明板がありました。二の丸の西には空掘が残っているとのことでしたが見つけることはできませんでした。

 

 
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