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群馬県みなかみ町

名胡桃

2005年04月30日

名胡桃城の由来
明応元(1492)年頃、沼田城主沼田景久は、その子息を名胡桃・小川・川田・石墨の各地に配し領地拡大を図ったが、まだこの地に城郭は築かれていなかった。16世紀半ばになり、利根沼田地方は上杉氏・北条氏等入り乱れ、戦乱の渦中にあった。天正6(1578)年に沼田城が北条氏の手に落ちたことにより、利根川左岸は同氏の勢力圏となった。これに対して上杉・武田方の真田昌幸は、渡河点警護と沼田城奪取の前線基地として、利根川右岸にこの城を始め諸城を築城したものと思われる。また、この城の城代は鈴木主水重則であった。
天正7(1579)年に、北条勢は二度に渡りこの城等を攻めたが、いずれも敗退している。しかし、その翌年真田勢はこの城から攻め出して、難無く沼田城等を攻略している。その後、当地方の大部分を真田領としてほぼ手中に収め、この城は岩櫃城と沼田城の中継地となっていた。また、天正14〜16(1586〜1588)年の間、この城とその南側の山頂にある北条方の権現山(榛名峠)城は再三再四対立していて戦闘が絶えなかった。
天正17(1589)年に、豊臣秀吉は北条氏の上洛の条件として、真田氏に替地をあてて沼田城等やその一帯の領地を北条氏へ渡したが、なぜかこの城だけは真田氏の要望によりその所領として残された。北条方の猪俣邦憲等はこれを不満として同年11月にこの城を攻略した。たばかられた鈴木主水は、沼田において自害している。豊臣秀吉はこの報を受け激怒して、以前からの不信の念と相まって北条氏に宣戦、その翌年同氏を攻め滅ぼした。
この事件に関しては問題が複雑であるが、いずれにしてもこの城は、豊臣氏に天下統一をもたらし、当地方における乱世に終止符を打つことになった、小田原征伐勃発の口火を切ったことにより、記念すべき重要なものである。その後、当地方一帯は真田領としてその支配下にあったが、真田氏の沼田城安泰により、この城は廃城になったものと考えられる。
(看板資料より)

名胡桃城の概要
この城は、利根川・赤谷川の合流点の南西段丘上に位置した崖端城であり、河川との比高は50メートルである。両側が断崖で尖鋭に突出する尾根を掘り切った尾根式山城の様相をもつ並郭式構造を呈していて、その南西方向には平城部が続いている。またこの城の南1kmには190m高く富士山(天狗山)があり、のろし台として抑えられていたと思われる。
当時の建物は、北条氏の文献に「百姓屋敷」とあるように、他の戦国時代城館址における戦略上拠点と同様、粗末な掘っ立て小屋があったと思われる。大正13年、本丸の中央に徳富蘇峰書による石碑が建立されており、この城は地元の名胡桃城址保存会により管理保護されている。
(看板資料より)

三の丸虎口

名胡桃城は国号17号線で分断されていました。もっと山の中の物凄く秘境の地にあるような城を想像していたのですが、思ったより普通のお城でした。国道17号線で分断されているくらいですから見学するのもそんなに体力を要しません。東京から新潟方面に向って国道17号線の右側に駐車スペースがあり、そこから奥に向って、三の丸、二の丸堀、二の丸、本丸堀、本丸、ささ曲輪、袖曲輪と続きます。非常にきれいに整備されていて写真のように案内の石板も設置されていました。国道17号線の左側は人家などがあってすっかり様子が分からなくなっていたのが残念でした。

二の丸堀

二の丸跡

本丸堀

ささ曲輪

袖曲輪

 
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