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山梨県富士河口湖町

中道往還

2016年11月28日

中道往還は、古代から開かれていたといわれ、甲斐と駿河を結ぶ三つの街道のうち若彦路、富士川街道の間を通る道であることから「中道」と呼ばれるようになったと『甲斐国志』に書かれている。
弥生時代から古墳時代にかけて、甲府盆地の曽根丘陵周辺に有力な集団が存在していたことが墳墓や集落の分布から知られており、中道往還は文化の交流に寄与したと考えられる。
また、鎌倉時代には甲斐源氏の武田信義、安田義定らの武将や戦国時代には、武田信玄、織田信長、徳川家康等の名将が往来した軍用道として、本栖と古関には関所がおかれた。続いて江戸時代には駿河から塩や海産物の輸送路として伝馬制がしかれ、産業の道として盛んに利用された。
(看板資料より)

 



2004年10月23日

中道往還は、古代から開かれたといわれ、甲斐の国と駿河の国を結ぶ最短距離の街道です。甲斐国誌に「駿州の通路三条ある中間なる故に呼べり」と紹介されている。
古代、甲斐国の政治の中心が釜無川以東にあったことから、縄文・弥生時代、文化の道として、鎌倉時代には、甲斐源氏の武田信義、安田義定らの武将や戦国時代には、武田信玄、織田信長、徳川家康の名将が往来した軍用道として、本栖・古関には関所がおかれました。
江戸時代には、駿河から塩、海産物の輸送路として伝馬制がしかれ、産業の道として活況を呈したのでありますが、明治以降、鉄道の開通と自動車道路の発達により忘れられた道になろうとしています。
往時の証として、女坂峠にこんな句碑が立っています。
生魚の二十里走る郭公鳥(ホトトギス)
(看板資料より)

国道139号線を河口湖方面から本栖湖方面に向って進み、精進湖の入口を過ぎて少し行ったところの脇道のところに看板を見つけることができますがその看板が中道往還の看板です。本当は人文社の山梨県広域道路地図には信玄礎石と書かれていたのでそれを探しに来たのですが見つけることができず、その代わりに見つけたのがこの中道往還の看板でした。地図によれば付近には城山という名の山もあるので昔は砦などの拠点だったのかもしれません。看板を奥に進んでいくと昔の道の跡が残されておりなかなかいい雰囲気でした。時間がなかったので詳しく探索することができませんでしたが今後また訪れてみたいと思います。

 

 
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