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群馬県高山村

中山城

2012年12月23日

中山城跡
群馬県史通史編3中世は「16世紀に入ると、上野内の築城は第3期を迎え…中世築城の最盛期となる」とし、「主な城を挙げると、金山城・箕輪城…長井坂城・中山城…などである」と記している。そして、その築城者は前記した城は総て後北条氏によるとし、特に中山城と長井坂城の築城手法は、同じ半折囲郭構造で驚くほど似ている、と指摘している。
その構造は、本丸を北・西・南の三方から囲むような形で二の丸を設置し、堀切と土居で防御をつくり、二の丸の西にこれを囲むような形に三の丸がつくられて、要害堅固な城郭をなしているのが付図からもうかがえる。
またその築城年代については、県教育委員会発行の『群馬県の中世城館跡』によると、北条氏が上野国主要部を制した後期、天正11(1583)年から14(1586)年と推定されると記している。
(看板資料より)

整備されていて雑草がほとんどなく、郭や堀の形を在りのままに確認することができました。一部畑となっている郭もありましたが、奥から二番目の郭が本丸となっており、上の写真は本丸に登る途中から撮影したものです。本丸は正方形で周囲を土塁で囲まれていました。隣の郭との間はかなり深い堀で隔てられていて驚きました。

本丸

中山城跡
中山城は、立地上は土囲式丘陵、構造上の分類からは、本郭が一側に偏し半円形をした囲郭式で、この地域では最も新しい構造で、小田原北条の影響を受けたものである。
付図のように、本丸は正方形に近く、追手は南である。二の丸は本丸の北・西・南を囲み、三部分に分かれ、本丸との間の堀は深く土橋はない。
堀は総て空堀で、掘底は通路を兼ねている。三の丸は二の丸の外側に囲い付で、その南部は広い。更に三の丸西・北側に腰曲輪、南・北に捨曲輪がある。
上杉・武田・北条の覇権争いに翻弄された城で、天正10(1582)年、沼田勢と共に白井勢と戦って破れ廃城となった。
(看板資料より)

堀跡

中山古城の西1km、中山盆地中央の比高数mの丘にある。天正10年中山を占領した白井勢はそこに赤見山城守を置いた。北条氏は新城を築き、山城守の工作により、川田、須川、沼田の地侍が多数北条勢に属した。しかし天正14年9月真田昌幸が奪還し、林弾左衛門らを入れた。本丸は方60m、坂虎口が南と西北にあり、高土居を巡らす。二の丸は帯郭状に本丸の三方を囲み、幅15〜25m、東・西・南の三部分に分かれ、本丸との間の空堀は深さ6mに及ぶ。三の丸は二の丸の西北から南までを包み、南部は広い。その南の堀切を隔てた外郭は方150m、土橋で三の丸へ続く。西の帯郭は三の丸より5m低く、南半外縁には土居がある。三の丸・二の丸の北には空堀を隔てて狭い帯郭が付き、さらに西北に北郭が構えられている。
(日本城郭大系より)

 

 
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