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愛知県新城市

織田信長本陣・極楽寺跡

2014年08月16日


「絵図ひらき軍議かさねし極楽寺」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)


「手振りよくおどる酒井のえびす舞」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

三州長篠合戦記によれば、合戦直前の織田・徳川軍の雰囲気は武田軍を恐れること甚だしく沈みがちになっていたようです。そんな雰囲気を打破するために信長本陣にて軍議の際に信長が家康に対して、長篠城を囲んでいた武田軍は少数の兵であるにもかかわらず川を越えて有海村、柳田村に背水の陣を敷いたとのこと。そのあまりにも無謀な行動は我々が武田軍をおびき出すことに成功したということであり勝利は間違いない。と言って味方を励ましたが、その後物見からの報告で武田勢は整然としておりその堂々たる布陣はなかなか打ち破ることは難しいとのことであり、織田軍はますます武田軍を恐れてしまったそうです。
そんな中、信長は酒井忠次に敵の様子を聞くと、武辺者の酒井忠次は威勢良く、「敵は少数、味方は大軍であり、この合戦は必ずお味方の勝利である」と信長の意向通りに答えたので信長は大変喜び、織田軍も大いに明るい雰囲気になったのだそうです。信長は喜びのあまり、酒井忠次に対して、信長の嫡男信忠に盃を献じるよう命じ、更に酒井忠次が夷舞が堪能であるとのことから所望し、酒井忠次もその場で舞い、大いに盛り上がったのだそうです。
しかしその後酒井忠次が、武田軍の鳶ヶ巣砦への奇襲を信長に献策したところ、信長は陣中から戦略が漏れることを恐れて、とっさに酒井忠次の策に対して激怒し退室したため軍議も終了してしまった。しかしその後すぐに酒井忠次は信長に呼ばれ、先ほどの鳶ヶ巣山への奇襲の策をほめ、実行に移したという。

 



2003年10月12日


「絵図ひらき軍議かさねし極楽寺」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)


「手振りよくおどる酒井のえびす舞」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

三州長篠合戦記によれば、合戦直前の織田・徳川軍の雰囲気は武田軍を恐れること甚だしく沈みがちになっていたようです。そんな雰囲気を打破するために信長本陣にて軍議の際に信長が家康に対して、長篠城を囲んでいた武田軍は少数の兵であるにもかかわらず川を越えて有海村、柳田村に背水の陣を敷いたとのこと。そのあまりにも無謀な行動は我々が武田軍をおびき出すことに成功したということであり勝利は間違いない。と言って味方を励ましたが、その後物見からの報告で武田勢は整然としておりその堂々たる布陣はなかなか打ち破ることは難しいとのことであり、織田軍はますます武田軍を恐れてしまったそうです。
そんな中、信長は酒井忠次に敵の様子を聞くと、武辺者の酒井忠次は威勢良く、「敵は少数、味方は大軍であり、この合戦は必ずお味方の勝利である」と信長の意向通りに答えたので信長は大変喜び、織田軍も大いに明るい雰囲気になったのだそうです。信長は喜びのあまり、酒井忠次に対して、信長の嫡男信忠に盃を献じるよう命じ、更に酒井忠次が夷舞が堪能であるとのことから所望し、酒井忠次もその場で舞い、大いに盛り上がったのだそうです。
しかしその後酒井忠次が、武田軍の鳶ヶ巣砦への奇襲を信長に献策したところ、信長は陣中から戦略が漏れることを恐れて、とっさに酒井忠次の策に対して激怒し退室したため軍議も終了してしまった。しかしその後すぐに酒井忠次は信長に呼ばれ、先ほどの鳶ヶ巣山への奇襲の策をほめ、実行に移したという。

平井神社の奥の橋付近からいろはかるたの看板が見えるが、看板のところまで行くことはできませんでした。

 
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