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愛知県新城市

野田城

2006年05月05日

本丸跡にある稲荷

野田城には過去何度か来ていましたが、今回は現地の看板にも書かれている金堀人足が穴をあけた場所及び井戸を確認することが目的でした。→野田城絵図
現地の案内板に書かれている金堀人足が穴をあけた場所は本丸と二の丸の間あたりでした。
定本武田信玄によると、まず本丸と二の丸の間を西南の方から堀り崩させて本丸と、二の丸・三の丸の間の連絡を断とうとしたので、城兵は二の丸・三の丸を捨てて本丸にたてこもった。そこで今度は東北の方から本丸の下に向って穴を掘り、水の手を断つことに成功し、城主菅沼定盈及び浜松から援軍に来ていた松平忠正以下300余人が捕虜になったとのことです。
本丸跡には稲荷があり、周囲が空堀で囲われていましたが、300人もの人たちがたてこもっていたというには少し狭いような気がしました。本丸跡はもっと広い範囲だったのかもしれません。
今回の目的のひとつである井戸を探すために奥の方まで行ってみましたが探し出すことはできませんでした。また金堀人足が穴をあけた場所も確認することができませんでした。


野田城址と書かれた石碑の前に石がありますが、菅沼定盈は小柄な人だったそうで、馬に乗るときにはこの石を踏み台にして馬に乗っていたということですが、この話は現地どこかに書かれていた情報だったのか、どこかの本で読んだ情報だったのかは忘れてしまいました。


本丸周辺の堀

JR飯田線の駅名にもなっている野田城ですが、ひっそりとしていて、観光用に手を加えられた様子もなく、鬱蒼とした林の中で苔むした遊歩道を歩くことができます。

 



2003年10月11日

野田城絵図

この城は、永正5(1508)年に築城されたと伝えられる。菅沼定則、菅沼定村、菅沼定盈等がここを居城とした。
城郭は南北に長く、北より三の丸、二の丸、本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。
戦国時代、今川、武田、徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年菅沼定盈が関東へ移封されるまで続いた。
(看板資料より)

野田の戦
元亀4(1573)年1月、上洛をねらう武田信玄は宇利峠を越えて三河に侵入してきた。菅沼定盈の守るこの野田城を攻撃するためであった。
野田城は小城であるが、備えが固くなかなか攻め込めない。そこで信玄は甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。菅沼定盈は徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明渡した。
(看板資料より)

 


1999年11月23日

長篠城から飯田線沿いに豊橋方面に少し行った所に野田城址があります。ここは信玄が三方原合戦にて徳川方に大勝したあとに攻略した城で、このときの城主は菅沼定盈。武田方は金堀師を呼び寄せて城の水の手を絶ち、この城を陥落させる。しかしこれが信玄にとっての最後の攻城戦となってしまうのである。


法性寺

 

 
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