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長野県麻績村

麻績

2014年11月16日

麻績城跡からめて入口

戦国時代に麻績の地を支配したのは服部氏で、古屋敷に居館を構えた。天文22(1553)年3月末、甲斐の武田晴信(信玄)が四賀村の苅谷原城、会田の虚空蔵山城を破って筑摩北部地方に侵入し、青柳城の青柳氏を従えて服部氏を追い払い、麻績城には青柳氏が移ったが、武田氏・織田氏が滅亡した天正10(1582)年以降、この地は上杉景勝・小笠原貞慶の争奪の地となり、結果的には小笠原氏の支配地となった。
(日本城郭大系より)

縦方向から見た堀切

横方向から見た堀切

麻績城本丸

帯曲輪



2003年09月22日

麻績城からの景色

 

麻績城は麻績氏の居城であり、麻績氏の娘は諏訪頼重のもとに嫁いで女の子を産み、その子はのちに信玄の側室となって勝頼を産むことになります。新田次郎氏の小説武田勝頼でも新府城から逃げ落ちる際に、新府城にいた湖衣姫(勝頼の母)の母は勝頼らとは一緒に岩殿城には向かわずに自分の実家である麻績城に戻る様子が描かれています。
麓の案内板によれば、麻績城への道は麻績村役場から右周りが中町ルート、左周りが北山ルートというのだそうですが、右周りの中町ルートへの道はちょっと狭かったので北山ルートで行くことにしました。

法善寺を左方面に進んでしばらく行くと「麻績城跡からめて入口」という案内棒があり、そこには車を止めておける場所もあります。(上の写真のところ)
そこで靴を履き替えてから道を進みました。ここは是非それなりの靴の用意をしたほうがいいです。
歩き始めて最初は普通の砂利道が続きますがしばらく行くと少し広くなっている場所に出ます。私が行ったときは雑草が生い茂っていてその先の道がなかなか分かりにくかったのですが右側の方に階段があるのでそこを登っていきます。少し平らになっているところに出ますが上のほうに向かって進むと更に登り坂となり足場はかなり悪くて滑りやすくなってします。ここを登りきったところに「麻績城案内略図」という看板があります。
案内板によればここから左に行くとのろし山、右に行くと主郭に行くものと思われ、私は右に進みました。しばらくかなり狭い道を登っていくと頂上?と思われるところに出ることができ、そこには休憩用の椅子などもあり、そこからは麻績の町を一望することができます。ここが主郭なのかどうかは分かりませんでしたが今日はこれから葛尾城に行かなければならないのであまり無理をすることもできず、今日のところはとりあえず下見ということで引き返すことにしました。
後日再び訪れてみたいと思います。

 

 
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