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静岡県吉田町

大熊備前守屋敷跡

2014年12月28日

元亀2(1571)年武田信玄は、徳川家康の将、松平左近真乗の守っていた山崎の砦を攻め落とし、砦を修築して小山城と命名し、大熊備前守父子を城代とした。
ここは城代の屋敷跡である。小山城より約6町(約650m)離れ、面積は約3反歩(約3千平方メートル)、屋敷は約1反歩(約1千平方メートル、東は深い沢で空掘や土塁の跡も見られ、城の出郭を兼ねた居館であったと思われる。
(看板資料より)

大熊備前守屋敷跡と伝える神戸小字盤ノ谷の原は湯南原台地の東部片岡原の北西部にあり、今屋敷跡の北半分が切り取られて工場建設予定地となっており、南半分は茶畑となっている。
さて、武田信玄は元亀2(1571)年2月山崎の砦を修築して小山城と命名し、越後の浪人大熊備前守長秀を足軽大将として小山城の城主とした。長秀は騎馬30、足軽75人を預かってこれを守り、後陣として相木市兵衛昌朝80騎が置かれた。
長秀は城主として元亀3年暮頃まで約1年半小山城主としてここに居住した。この時その居館として使われたのが大熊屋敷である。おそらく家臣なども一部この屋敷に起居していたのではないか。
今この屋敷跡の東方は雑木林で屋敷跡と思われる場所は殆ど茶畑である。東南から東にかけて深い侵蝕谷(盤の谷)があり、この谷の北西部−屋敷跡の東部−に空掘りの一部を残す。屋敷は北から西にかけて湿地に取り囲まれ南方にも浅い侵蝕谷がある。
大熊氏居館跡は東西約60m、南北約50m、面積約3千u程ある。屋敷の南口を出て東方の小山城までは直線で500m、実際は750m程ある。
ここからは東方に大井川の下流、焼津、北にまわって藤枝、北西に島田まで一望におさめる。特に湯南原台地の西部、井良・谷口原は指呼の間に見え、大井川の御陣場−八幡神社の森が眼前に浮かんでいる。
敵の来襲する方向、兵力など大方判断するには最適の場所である。従って小山城の出郭の役も兼ねていたと思われる。
(吉田町の文化財より)

 



2007年11月04日

吉田町にある小山城の近くに大熊備前守の屋敷跡があるということだったので今回立ち寄りました。しばらく小山城の周辺を走り回って探しましたが見つけることができなかったため小山城に向かいました。小山城には駐車場にお土産売り場があってそこには小山城に関する本や町誌などが置いてあり、小山城の説明をしてくれる人もいたような気がしたのでそこで聞こうと思ったのです。車を止めてお土産売り場に行って聞いてみたところ確かにそういうものはあることを聞いたことがあるとのことでしたが定かではなかったようで、別途詳しい人に電話で聞いてもらいました。それによると小山城のお土産屋さんの横にある道を登って行くと茶畑になるのでそこでまた誰かに聞いてほしいとのことでした。坂を登っていくと確かにそのうち一面茶畑になりましたが、屋敷跡の杭はなかなか見つかりませんでした。ちょうどご夫人がいたので尋ねてみるとよく知っているようで場所を教えてくれました。教えてもらった通りの場所に向かいましたがそれでもなかなか見つけることができませんでした。遠くの茶畑の真ん中に白い棒のようなものが見えたので茶畑の中を歩いてそこに行ってみました。するとなんとその白い棒には「大熊備前守屋敷跡」を書かれていました。本当に茶畑のど真ん中なので場所が分かりづらいかもしれません。


小山城

 

 
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