←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県松川町

大島

2004年3月13日

台城公園案内図

大島城は一名台城、又の名大蛇ヶ城という。平安時代末期船山城主片桐為行の第8子八郎宗綱が大島郷へ分知して大島氏を称し、この地に城を築いたが、始めは簡単な砦程度のものであったらしい。その後戦国末期までおおよそ400年間城主として大島郷を領知したが、武田氏の伊那侵攻により同氏に属した。
元亀2(1570)年、武田氏は飯田、高遠と共にこの城の大修築を行い、現に見るような規模とした。この修築には郡下21郷から人足を出させたとの記録がある。
城は典型的な平山城で、本丸、二の丸、三の丸に当る曲輪を持ち、東と北の崖に帯曲輪を設け、それらをめぐって空堀、三日月堀、井戸など何れも跡をとどめている。
天正10(1582)年、織田氏の伊那侵攻によりもろくも落城し、建物は焼失した。今でも本丸跡から当寺の焼米が見出される。
(看板資料より)


三日月堀

平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に分知しました。それは片桐兵庫助為行の八男の片桐八郎宗綱で、在名をもって大島八郎宗綱を名のったのが大島氏のはじめです。大島氏は鎌倉幕府に仕え、以降中世を通じてこの一帯を領有・統治し、大島城・北の城、沼の城などを築きました。
南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文23(1554)年、一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治しました。
元亀2(1571)年、武田氏は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ上るための拠点とするため、伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大修築を行いました。この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請の人足として強制的に動員したことを記す武田氏の朱印状が残っています。現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、三つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空掘が当時のまま残されています。
信玄亡き後の勝頼の代、天正10(1582)年、織田氏が伊那郡に侵入した時、大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、信廉ら有力な武将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡したことが『信長記』に記されています。
城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米などが発見され、井戸跡には落城の際お姫様が金の鶏を抱いて身を投げたという悲しい伝説も伝えられています。
(看板資料より)


本丸


この城址は天正10年2月、織田氏の伊那進攻により落城した。以来400年を数えるに当りこの碑を建立する。
(石碑裏に記載された文章より)


天竜川


金鶏伝説を伝える井戸跡

城の生命線ともいうべき飲料水を確保した井戸の跡で本丸北方の断崖の下に往時のままの石組を残しています。周囲を土塁で囲み外部からは井戸が絶対に見えないようにしています。
大島城は天正10(1582)年、織田氏の甲信侵攻により落城してしまいました。落城のおり、お姫様が黄金のにわとりを抱いてこの井戸に身を躍らせたという悲しい伝説が伝えられています。元旦の早朝には井戸の底からにわとりの鳴く声が遠くかすかに聞こえるとも言われています。ここに姫観音を建立し供養する。
(看板資料より)


一番上の写真で分かるように天竜川を利用して構築された城で、規模も大きく台城公園として整備されています。駐車場も立派でかつ車がたくさん駐車されていて驚きましたが、マレットゴルフのせいであることが分かりました。真田にもこういうところがありましたが長野県では流行っているのでしょうか?
伊那谷の城を巡ると、武田晴信に滅ぼされたという時代と、織田信長に滅ぼされたという時代がでてきますが、この大島城は信長軍と戦うことなく武田信廉が逃亡して落城してしまいます。どんなに立派な城でも守る人間がいなければ話になりませんね。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→