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    長野県高森町

瑠璃寺

2008年11月02日

大島山瑠璃寺
平安時代末期の1112(天永3)年比叡山竹林院観誉僧都の開基。隆盛期には七堂伽藍五重塔36院坊と盛観を呈した。本尊薬師如来及び両脇侍像(重要文化財)ほか聖観音立像地蔵菩薩立像など優れた藤原期の仏像が現在する。
(看板資料より)

永禄年中に武田氏の祈願所となって大いに栄えた。そこで武田家から贈られた鶏の香炉および布袋、花鳥の掛け物などがある。その後、天正年中に織田氏のために兵火にかかり寺領を接収された。
(長野県町村誌より)

建久3(1192)年には源頼朝の祈願所として永代750石をたまわり、七堂伽藍、36坊が甍を並べる大寺であったという。戦国の世、武田の世には信玄の祈願寺であったが、天正10(1582)年織田軍の進入によってことごとく兵火にかかり、堂伽藍の灰塵と帰して現在はまったくその面影が無い。
(信州の仏教寺院より)

客殿

瑠璃寺は武田信玄の祈願所であったとのことで今回立ち寄ってみました。あとで分かったのですが境内はいくつもの堂などがあって広大でした。私が最初に訪れたのは客殿でした。まず入口の新聞受けに武田菱があって驚きました。呼び鈴を鳴らしてしばらく待っているとご婦人が出てきたので武田信玄との関係や資料などについて聞いてみましたが詳しいことは分からないとのことでした。しかたな拝観順序に従って歩いていると客殿の外にいた方と会いました。この方がなんと瑠璃寺の名誉住職さんとのことで再び同じ質問をしてみるとなんと宝物館の中を見せてくれました。


信玄公寄進白鞘太刀

日本美術刀剣保存協会鑑定「薙刀無銘」
古波平と鑑せられる(池の平一派製作の古刀)。
平安末期から鎌倉時代に及び、九州薩摩地方で権勢を誇った波の平一派の作。
当薙刀は鎌倉時代1200年頃と鑑せられる匂切れの長いのが欠点であり残念であるが貴重な銘刀である。
また、日本美術刀剣保存協会会員宮下久之氏鑑定によると作は平安末期〜鎌倉初期の古い備前派の作と思われる。
上級武士の所持した長刀(薙刀)
(説明資料より)


信玄公寄進鶏香炉

ほぼ等身大の青銅製の鶏香炉である。両翼を含めた背中を蓋として炉をつくり、背中の上部には煙出しの孔をもうけ、嘴からも煙を吐き出す趣向など、各所にユーモラスな造作がうかがえる。羽毛の質感が的確に表現されており、両脚を踏みしめ首をひねって鳴嚶する仕草には、一瞬の動きを巧みに捉えようとした造形の機微がうかがえる。写実を基調としながら見事に意匠化された造形は、当地に伝わる金工品の秀作といえよう。制作年代については定かではないが、武田信玄寄進の香炉として伝えられている。
(説明資料より)


重要文化財
木造薬師如来及び両脇侍像三躯
本尊薬師瑠璃如光来座像
脇侍日光月光両菩薩立像
桧材白木作り定朝以前藤原前期の作。
天永3(1112)年開山観誉僧都が本尊として安置したものである。昭和9年国宝に指定され同年国宝保存法によって修理される。薬師如来の誓願は心身の病を医して人類の苦悩を救うことにある。古来秘仏として厨子内に安置され、61年目ごとに行われる開張法要以外はそのお姿を拝することができなかったが、昭和40年特別開開が行われそれ以来時代の要請に応えて常時拝観できるようになった。平成2年3月三尊佛収蔵の瑠璃光殿が完成し同3年4月遷座法要が行われ同時に従来の厨子内には前立薬師座像が安置された。
(看板資料より)

1554 武田信玄の伊那谷攻略によって、鈴岡城・神峯城などが相次いで落城する。但し当地の領主松岡氏は戦わずして早々に降伏したため瑠璃寺には戦禍が及ばなかったものと思われる。
永禄元亀頃 比叡山東塔正覚教院より豪盛和尚が来往する。あるいは比叡山にあって当寺住職を兼務か。
1563 武田信玄、正覚坊へ条目を寄せる。
1582 織田信長の伊那谷侵攻に際し、伽藍の大部分を焼失する。
(瑠璃寺略年表より抜粋)


武田信玄之條目 正覚坊宛

武田信玄が正覚坊へ宛てた條目である。條目とは記事を箇条書きにした文書のことで、室町時代以降に多く見られる。正覚坊は「縁起」の伝える永禄元亀の頃、比叡山より下向したとされる豪盛の住していた正覚教院と符合し、文中の「御下向」や「伊那郡瑠璃寺領、如前々令寄附貴院江」の記述からも、当寺比叡山の正覚坊に住していた豪盛に寄せたものと推察される。上杉家文書には、永禄6(1563)年に記された正覚坊重盛の書状数通が伝わる。何れも上杉方の武運長久を首肯する内容のものであり、條目にみられる「此己前輝虎祈念、更ニ不存遺恨候事」の一文は、あるいはそれらを指したものとも考えられる。
(説明資料より)

 
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