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神奈川県相模原市

首洗池


2014年01月04日

寸沢嵐首洗池の言い伝え
武田信玄は、永禄12年8月総勢2万の軍勢を率いて甲府を出発。信州佐久を経て碓氷峠を越え、長躯して関東諸城を攻略し、遂に北条氏康の居城小田原城を攻撃して目的を達した。
甲州への帰路、愛甲と津久井の境界である三増峠を越えんとした時、武州滝山城主北条氏照る率いる2万の軍勢の迎撃を受ける。しかし山嶽戦を身上とする武田軍はこれを打ち破る。時に永禄12年10月8日であった。
この三増合戦に勝利を得た武田軍の本隊は、三ヶ木から落合坂を下り沼本の渡しより、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡り、この地に入った。この2筋の信玄道を通ってきた武田軍は合流しこの地において戦勝の儀を執り行った。
「新編相模風土記」によると、武田信玄はこの地「反畑」にて討ち取った首級の首実験を行った。その数実に3269であり、ここにて勝鬨を上げる。その討ち取った首を、この池で洗ったといわれるので「首洗池」と言い伝えられている。また、武田軍は反畑において首実験を行った後浅間の森に埋葬して塚を築き、社を建てたといわれる。この社が浅間神社である。
(看板資料より)

 



2003年11月23日

三増合戦で北条勢に勝利をおさめた武田勢は、甲州へ帰還する途中、このあたりで軍団の立て直しと首実験を行いました。この池は武田勢が北条方の首を葬る前に洗ったところといわれています。
(看板資料より)

寸沢嵐首洗池の言い伝え
武田信玄は、永禄12年8月総勢2万の軍勢を率いて甲府を出発。信州佐久を経て碓氷峠を越え、長躯して関東諸城を攻略し、遂に北条氏康の居城小田原城を攻撃して目的を達した。
甲州への帰路、愛甲と津久井の境界である三増峠を越えんとした時、武州滝山城主北条氏照る率いる2万の軍勢の迎撃を受ける。しかし山嶽戦を身上とする武田軍はこれを打ち破る。時に永禄12年10月8日であった。
この三増合戦に勝利を得た武田軍の本隊は、三ヶ木から落合坂を下り沼本の渡しより、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡り、この地に入った。この2筋の信玄道を通ってきた武田軍は合流しこの地において戦勝の儀を執り行った。
「新編相模風土記」によると、武田信玄はこの地「反畑」にて討ち取った首級の首実験を行った。その数実に3269であり、ここにて勝鬨を上げる。その討ち取った首を、この池で洗ったといわれるので「首洗池」と言い伝えられている。また、武田軍は反畑において首実験を行った後浅間の森に埋葬して塚を築き、社を建てたといわれる。この社が浅間神社である。
(看板資料より)

 

 
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