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長野県長野市

妻女山

2013年07月21日

妻女山のご案内
上杉本陣の妻女山の歴史
永禄4(1561)年8月、上杉謙信は妻女山に1万3千の陣を置き、茶臼山・海津城の武田信玄の軍勢2万とにらみ合いを続けていた。
9月になり、信玄の家来で軍師の山本勘助は、妻女山の上杉勢を攻めるには啄木鳥という鳥が後ろからくちばしでたたき、驚いて出てくる虫を捕らえてしまうという「啄木鳥の戦法」を信玄に進言し、9月9日高坂弾正を総大将に1万2千の武田勢が、妻女山の上杉勢を背後から襲うべく海津城を出発した。
しかし海津の城に煙の立ち上る様子を見て、武田勢の動きのあるのを知った上杉勢は、その夜のうちにひそかに雨宮の渡しから千曲川を渡り、八幡原に軍勢を進めていた。そして武田勢が妻女山に到着した時には、既に上杉勢と武田勢の凄まじい戦いが典展開されていたのである。
(看板資料より)

展望台からの景色

ここは、1561(永禄4)年9月10日の第4次川中島合戦の折り、越後の上杉謙信が陣を設けた山。ここから川中島平は一望でき、海津城の動静を伺い知ることができた。
同年9月9日、海津城からもくもくと立ち上る煙を見た謙信は、武田方の戦いの準備を察し、その夜、山を下り千曲川や犀川を渡って八幡原の信玄の本陣を目指した。
その様子を後に頼山陽が「鞭声粛々、夜河を渡る・・」と詠んでおり、ここから南西約1kmには「雨の宮の渡し」の跡が残っている。
なお、展望台の入口に「槍突き(尻)の泉」がある。謙信が槍の石突きで突いたところ、水が出たという伝説があり石碑が建っている。
(看板資料より)


1561(永禄4)年9月10日(現在の暦では10月28日)、八幡原を中心とする川中島平の広い範囲で武田・上杉両軍による4回目の戦が行われた。
上杉軍は8月16日に13,000の本隊を率いて海津城を眼下に見ながらここ妻女山に着陣した。
一方、海津城を守る高坂弾正からの援軍要請を受けた武田軍は20,000の兵を率いて8月29日に海津城に入った。両軍とも過去3回にない多数の兵を動員し決戦の準備に臨んだ。
武田軍は山本勘助の進言により兵を二手に分け、主力である12,000の兵を夜中妻女山へ向かわせ、残り8,000の信玄の本隊が八幡原でこれを迎え撃つ作戦をとった。いわゆる「きつつき戦法」と呼ばれるものである。これを察知した上杉軍は夜中に山を下り、千曲川の雨の宮の渡しや犀川を渡って川中島平に出て夜明けを待った。この夜は霧が深く、夜明けと共に霧が晴れた瞬間、両軍がすぐ間近に遭遇することになった。上杉軍の予期せぬ「車がかりの戦法」に劣勢となった武田軍は苦戦し、、信玄の弟信繁、諸角豊後守、山本勘助らが戦死した。その後、妻女山からの別働隊の参戦によって形勢は逆転し、上杉方も多くの戦死者を出し退却した。
直接対決を避けてきた信玄がこの戦いで多くの犠牲を払いながらも上杉軍を押し返したことで川中島一帯は信玄の配下となり、上杉を頼った村上義清、高梨政頼は川中島への復帰の願いを断たれる結果となった。
(看板資料より)


松代妻女山招魂社

松代妻女山招魂社は、戊辰戦争の際松代真田藩の藩士として従軍し、戦死された52柱の御霊を祀るために、第10代藩主真田幸民が明治2年に建立した神社であります。
その後時代は流れ、日清・日露・満州・日中そして太平洋戦争終結までの間、度重なる国の危機に際し尊い命を祖国日本のために捧げられた郷土の戦没者969柱の御霊を合祀してある慰霊施設であります。
現在我が国は、経済大国となり世界各国より注視の的となっております。これもひとえに国民の努力もありますが、ひたすら日本の平和と繁栄を願って命を落とされた諸霊の尊い犠牲によるものと思われます。
平和を願い、二度と悲惨な戦争を起こさぬよう、毎年9月の第2日曜日を「慰霊の日」と定め、追善供養を行っております。
(看板資料より)

 



2004年05月22日

川中島合戦のとき、上杉謙信が陣営を設けた山で、この平地は陣場平、その南西は千人窪と称し、伏兵千人を潜ませたと伝えられている。川中島平は一眺の中に入り、海津城の動静を伺い得る地である。
永禄4年9月夜、山を下り雨の宮の渡しを渡ったのが、かの有名な「鞭声粛々…」の詩となり、また「西条山は霧ふかし、筑摩の河は浪あらし…」と学校唱歌などにうたわれている。
(看板資料より)


招魂社

妻女山の招魂社は戊辰戦争の戦没者を祀っているとのこと。


展望台

永禄4(1561)年のこの合戦は、武田信玄と上杉謙信が一挙に勝敗を決すべく、両軍合わせて3万3千もの軍勢が激突した凄まじい戦いである。信玄が4月、信濃守護の名のもとに信濃に進出し、割ヶ獄城を落としたのがこの大合戦の起因である。上杉軍は8月16日に海津城の向かい妻女山に1万3千の陣を置き、武田軍は茶臼山から8月29日に海津城に入り兵力を2万とした。武田軍は山本勘助の案により軍を二隊に分け、一隊が夜陰にまぎれて妻女山に進み奇襲攻撃をかけ、上杉軍が山を下るのを残る一隊が待ち受けて八幡原で撃つ「きつつき戦法」を実行したが、上杉軍はそれを見破って、9月9日の夜ひそかに山を下って雨宮から千曲川を渡った。9月10日川中島は霧の深い朝だった。
上杉軍の予期せぬ攻撃と「車がかりの戦法」によって武田軍はゆるみ、大混戦となり「鶴翼の陣」を敷いて応戦したが、大苦戦を強いられてしまった。しかし、妻女山へ向った別働隊の到着によって攻守は完全に逆転し、上杉軍は善光寺へと敗走したのである。
そんな中で両将一騎打ちが戦いのハイライト。萌黄の洞肩衣を着け、頭を白い布で包んだ騎馬武者の謙信が、間髪入れず信玄めがけて三度斬りつけた。信玄は持っていた軍配団扇でとっさに受けとめたが、後で見ると刀傷が7ヶ所もあったという。
この合戦は信玄の弟典厩信繁をはじめとして6000余名が戦死した大激戦であったが結局勝敗はつかなかった。
(看板資料より)

展望台からの景色

 
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