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長野県長野市

山千寺


2008年12月29日

旧山千寺観音堂及び境内
長野市指定文化財
山千寺は、その昔の繁栄を再現しようと、天文12(1543)年戸隠奥院円明坊融(佑)弘が、天台末派になることを条件に、戸隠一山の力を借り、十二坊を構えて開基した。甲越の戦火の中、武田信玄の援助を受けた。その後丸山家初代が、観音堂を造立し、戸隠山末寺となったが堂寺とも焼失し、やがて衰亡し、千七百年代に中興された。当観音堂は、文政4(1821)年武田信玄家臣丸子弥兵太直久を祖とする8代目、丸山弥右衛門直頼によって建て直されたものである。丸山家6代当主三登山武助の絵図に、山千寺と観音堂と推測される建物は、山千寺中興の当初は、現観音堂の下の平地に描かれている。
この立派な観音堂は、中興5世に相当する僧義順のときに、丸山家8代目が建て、僧侶となった丸山家9代、10代に引き継がれ、県下最古の観音仏とともに守られてきた。丸山家9代権大僧都円心没後、神仏分離令で、善光寺大勧進末寺となり、明治6(1873)年廃寺となった。しかし、丸子弥兵太を祖とする丸山・八田の5軒が、観音仏と観音堂を中興僧侶の墓所等を今に伝えている史跡である。
(看板資料より)

旧山千寺観音堂

永禄8(1565)年、武田信玄が水内郡を領するにあたり山千寺を再建した。
(信州の仏教寺院・長野県の武田信玄伝説より)

宝篋印塔

銅造観音菩薩立像
銅造で、台座と共に丸吹き(一鋳)とする。像形に比して、頭部及び手足の釣合が甚だ大きく、また胸間の瓔珞、天衣を大きくつくるなど、飛鳥時代から奈良時代にかけてのものに多く見られるところである。また、童顔に近いやさしい面相と共に、耳上の頭飾の蕨手の文様、瓔珞の形、裾の衣文のたたみ方と、胡桃形反花付の蓮華座、香狹間の形、框座の形、その他すべてが飛鳥時代の形式に従っている。天衣の垂下部の一部分を欠失しているほかは造顕当初の形を保存している。その製作は7世紀後半に位置すべきもので、県内最古に属する貴重な存在である。全高29.6cm
(看板資料より)

山千寺のお観音様
山千寺のお観音様(観世音菩薩)は、白鳳時代(飛鳥時代と奈良時代の間、7世紀後半)に造られた、長野県で最も古い仏像です。昭和12年5月25日に国宝(現在は国の重要文化財)に指定されました。観音様には色々なものがありますが、山千寺のお観音様は正確には「聖観世音菩薩」と言います。
優しいお姿で、穏やかな表情をされている観音様は、「いっさいの生き物の救いを求める声を聞くと、身軽にすぐに来て救ってくださる」と言われています。
(説明資料より)

山千寺は当初は訪問する予定ではなかったのですが、長野市に到着してみて、当日は長野市内で宿泊することになったので少し時間的余裕ができたことから急遽寄ることにしました。長野市内の北側にあります。いい天気で市内には雪はほとんどありませんでした。しかし山道を登り始めると徐々に路面に雪が現れ、お寺の入口周辺は本格的に雪が積もっていました。入口と思われる所はすぐに分かりましたが、山千寺周辺は三度山ハイキングコースになっているらしく現地にあった地図を参考にして観音堂に向って登って行きました。登りきったところに大きな木がありました。歴史のある所には大きな木があります。後を振り向くと厳しい太陽光線とその下に望む市内を覆う霧が神秘的でした。そこから更に階段があってそれを登ったところに観音堂がありました。観音堂の基礎部分には石垣があり、その上には木を複雑に組み合わせた塔の屋根裏のような構造が興味深かったです。観音堂の屋根の上には武田菱の家紋がありました。また階段の横には宝篋印塔があって丸山弥右衛門と掘られた文字がありました。

 
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