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愛知県新城市

奥平仙千代の墓

2004年12月11日

奥平貞能とその子貞昌(後の長篠城主)は元亀2(1571)年武田信玄に降伏したので、仙千代を武田方へ人質に出すことになった。
天正元(1573)年になって貞能父子は武田氏にそむいて徳川家康についたので武田氏は大いにいかってここで仙千代を磔にした。
(看板資料より)

奥平仙千代の墓の場所を聞くべく鳳来町役場に行きましたがあいにく誰もいなくて困っていたところ、役場の駐車場に車を止めていた方に教えてもらうことができました。鳳来寺山への参道の入口のところらしくそこへ行くまでの道順も教えてくれました。
参道の入口に到着してすぐに奥平仙千代の墓を見つけることができました。本当に入口のところに目立つようにされていたのです。1984年に鳳来寺に来たことがありますがその時には全く気がつきませんでした。というか奥平仙千代の墓など気にもとめていなかったのでしょう。
一通り写真を撮ってから、近所のお土産屋さんで於フウの墓や虎之助の墓の場所を聞いたのですが、ここでは詳しい場所は分からず、観来館に案内され、ここの方に詳しいお話を聞かせていただき、更には於フウの墓や虎之助の墓にも連れて行ってもらいました。
奥平仙千代が処刑された場所は、この観来館の横あたりにあった金剛堂の前だったそうで、墓も近くにあったとのことでした。しかし田口線の駅舎建設などでその後何度か墓の位置は変わったのだそうです。

観来館の2階でみることができる紙芝居ビデオには奥平仙千代というものがあるのですが、これによると武田方につくことになった奥平氏は、武田氏へ差し出す人質は当初は奥平貞能の夫人だったのですが病弱であった母を人質に出すのはしのびないということで次男の仙千代が自ら進んで人質となりました。しかしその後武田信玄の死によって奥平家は徳川方につくことになり人質達は見殺されることになってしまいます。人質の処刑は磔でしたが、奥平仙千代たっての願いで切腹に決まりました。しかしまだ幼い仙千代は切腹の作法が分からないため、守役であった黒屋甚九郎が切腹してみせて、しかるのち奥平仙千代が切腹したとのことでした。

資料では切腹したという記録が残っていますが、当時の処刑は一般的に磔であったようです。しかしのこぎりで首を挽かれたという話もあるようで、処刑場を通りかかった人たちも一挽きずつ挽かされるので人々はよけて歩くようになり、回り道ができてしまったという話もあったとのことでした。

奥平仙千代の首は金剛堂に梟されていましたが、後に盗み出されて額田町に埋められ、遊仙寺が立てられたのだそうです。今でも額田町の遊仙寺には仙千代の墓が残されているそうなので今度立ち寄ってみたいと思います。

 

 
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