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長野県大町市

千見城

2009年05月03日

千見城攻防の詳細(戦国時代)
■天文21(1551)年
信玄の臣山県昌景の軍勢に攻められ激戦の末、主将大日方源吾長辰は討死にし、以降大日方氏は武田に服属する。
■弘治元(1555)年
武田晴信は、地侍大日方主税助に千見城を攻略させ、その功を賞した。
■天正11(1583)年
4月24日武田氏滅亡後、上杉景勝の領有となり、大日方佐渡守に命じ、千見城の武備を固めさせた。
■天正12年2月29日
松本平を掌中にした小笠原貞慶は、安曇郡仁科衆に命じて、千見城を攻略させ、貞慶の将沢渡盛忠、渋田見源助らに、千見城番を命じている。
■天正12年4月
千見城を奪還した景勝は須田信正に千見城番を命じた。
■天正13年
貞慶麾下の仁科勢に攻略されたので、景勝はその将小田切左馬助に千見梨窪で仁科勢を討ち取らせ、左馬助の功を賞している。
■天正14年6月
これより先、千見城を重ねて手中にした貞慶は同城の普請奉行として二木盛正らを遣わし、仁科衆は盛正らの指図により、千見城の普請をするよう厳命している。
■天正17年9月
貞慶の子貞政は仁科衆の一人である浅野久右衛門に命じて千見城在番とした。
■天正18年
豊臣秀吉の命により、上杉配下の武将が占拠していた千見城を信濃に派遣された石川康正らに明渡すことになりほどなく千見城は石川氏の支配下に落着した。
(看板資料より)

最初に聞いた人の話ではオリンピック通りから白い坂道を登っていくとお墓があり、その奥から登っていかれるとのことでしたが、どうしても登山道を見つけることができず、近所の人に聞いてみたら別の登り道を教えてくれました。あんな高い所に行っても何もないけどそれを承知で登るのか?と念を押されてしまいました。城跡の場合は場所を聞くとほとんどの人が行っても何もないよ!と答えてくれます。多分お城というのは天守閣や建物がないと意味がないと思っているのだと思いますが、空掘り、堀切り、土塁、あるいは祠が1つだけでもあれば十分なのです。
別の登山道というのは旧道方面に行ってトンネルを越えてすぐにある橋を渡って、あとは沢伝いに登っていくルートだそうです。
橋はすぐに分かりました。近くに車を止めて橋を渡って登って行きました。すぐに千見城跡案内図というものを発見しました。これによると裏巡回路で45分、表巡回路は40分と書かれていました。私はそのまま裏巡回路から行きました。沢伝いに登っていくので所々沢を渡るための簡易的な小橋が架けられていました。登山道は狭かったです。途中道が分からなくなってしまうことがありましたがなんとか復帰して20分後には尾根に出ました。反対側の斜面は急で危険です。最初は尾根を左側に行ってみました。すると祠が一つありました。戻ってきて今度は右側に行ってみました。物凄く急な斜面を登って行きます。かなり恐いルートです。麓の人が「あんな高い所」と言っていた意味がやっと分かりました。そして本郭と思われるところに到着しました。登りはじめてからちょうど30分くらいでした。墓石があって「正源院殿法誉禅喜大居士」と書かれているように見えましたが誰のものかは分かりませんでした。説明板があった一番高い所から先は徐々に低くなっていて表順回路に続いているのだと思います。
ここで2人組の方に会いました。松本から千見城を見に来たとのことでした。私はいつもただ見てくるだけですが彼らは入念に調査をしているようでした。そして私は登ってきた裏順回路で下りましたが、彼らは表順回路から下ったとのことでした。
麓に下りてきたときには左膝を痛めてしまいその後の史蹟探索に影響が出てしまいました。

 

 
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