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千葉県市原市

椎津城


2009年09月20日

地元では通称「城山」と呼ばれている戦国時代の城郭跡です。築城年代は不明ですが、真里谷武田氏・続いて安房里見氏の重要な拠点として位置付けられてきましたが、天正18(1590)年徳川軍によって攻められ、落城したとされています。
(現地棒杭に書かれた文章より)

登り口

築城者についての確かな文献がないが、『千葉大系図』に千葉氏の一族椎津三郎の名がみえる。椎津三郎は交通の便と穀倉地帯を控えた地として、椎津を選んだものと思われる。また、先年まで城山の本丸北側の中段の断崖下にあったとされる板碑には、「慶応3(興国元=1340)年12月日」と刻まれており、城山の歴史を物語るものと考えられるが、現在は所在がわからなくなっている。
建武2(1335)年には、三浦介高継が椎津郷を所領し、応仁年間(1467-69)、三浦定勝が築城したという説もある。康正2(1456)年、武田信長が上総に来て真里谷城(木更津市真里谷)に本拠を構え、東西に勢力の拡大を図った。武田氏は三浦氏を椎津から追う払おうと努めたが、すでにこの時の三浦氏の勢力は、時が経るにつれて衰えてしまうほど弱いものになっていた。
また明応年間(1492-1501)に真里谷氏の手によって築かれたという説もある。天文6(1537)年、宗家真里谷城主信隆と嫡出の信応の間に家督争いが起こり、信応が幼少のため、叔父信助が小弓公方足利義明を味方にして、信隆を真里谷城から追い出してしまった。信隆は峰上城(富津市天羽中郷)や百首城(富津市竹岡)に移ったが、勢力は依然として強かったので、小田原の北条氏を頼んで信応の真里谷城を攻めたため、信隆に応じた者たちは真里谷の要害山に新城を築いて宗家の真里谷城と争った。小田原からは、軍師根来金石斎が派遣されて荷担した。嫡出の信応側は、小弓公方に応援を頼むと、公方は里見義堯に命じて攻めたため、天文6(1537)年5月27日に、ついに信隆は降伏して、北条氏綱を頼って鎌倉に逃れ、快元僧都に会い、そののち金沢(横浜市)に落ち着いたといわれる。
天文7(1538)年10月7日、第一次国府台合戦で小弓公方側は敗戦し、義明は討死したので、参戦した里見義堯父子は領国に引き揚げていった。北条軍は残る敵を追って、10月10日には中島(君津市中島)に出陣し、里見義堯・義弘の動静を見守っていた。この時、真里谷信隆(武田氏)は、金沢から中島に帰って北条氏に面接した。第一次国府台合戦で、小弓側として参戦して討死した椎津隼人佐(正)は、『北条史料集』第2巻には、「上総国市原郡椎津を本拠とした武士で、相馬氏の一族という」と記されている。
北条氏が中島から引き揚げた天文7年以降は、椎津城に武田(真里谷氏)信隆・信政父子が入城した。同12(1543)年に笹子城事件が起きたが、これは一族間の下克上であり、信隆が鎮圧した。信隆が同20(1551)年8月2日に病死(『武田氏系図』)するまで、入城後13年は他国との争いもなく、この間は領国経営と椎津城の防衛施設の整備に力を入れたとみられ、したがって、椎津城のもっとも弱い部分の強化策として、背後堅めの築城工事をしたものが、久保田城と蔵波城であったと考えられる。
同20年、武田信隆が没すると、翌21(1552)年2月下旬、里見義堯は有吉城(千葉氏有吉町)を攻撃したが失敗した。一方、北条氏康は謀略をもって武田信政と土岐頼定(夷隅町万木、万喜城主)を甘言で引き入れようとしたところ、頼定は拒絶して里見氏に注進し、信政はこれを承諾したことが原因となり、里見義堯・義弘は、北条氏の機先を制して椎津城を攻撃したのである(『房総里見氏の研究』)。
『房総軍記』によると、天文21年11月4日、万木弾正少弼(土岐頼定)と正木大膳亮(大多喜城)とを先鋒として、二千余騎(あるいは千八百余騎)をもって椎津城へ押し寄せた。城主信政は、これよりさき小田原へ加勢を請うたところ、武田四郎次郎・同丹波・西弾正に三百余騎(あるいは千余騎)を添えて差し向けた。城中の勢力は合わせて一千余騎となって、城から五町ほど押し出して山を盾に戦端を開いた。両軍は激戦し、殺傷すこぶる多かった。里見方で討ち取った主なる敵は、武田四郎次郎・同丹波・同左近・真里谷源三郎・同宇衛門・同左京亮・高山左衛門などである。正木の軍では堀江藤左衛門や富田佐平次・大沢甚平・畑右近らである。万喜の軍では、西弾正敦忠・山口新太郎・原田惣蔵らを討ち取った。椎津勢は大敗して四散し、信政(武田氏)はようやく逃れて城中に入り、ついに自殺した。義堯父子は戍兵をとどめて、義堯は久留里に、義弘は佐貫(城主)に帰城した。これから里見の勢力は再び振るい、上総はほとんど手中に返ったといわれる(『房総軍記』『延命寺里見氏系図』)。
武田一族はこの合戦に駆けつけて戦い、ほとんど戦死したが、真里谷宗家には信高が残っていた。また笹子城(木更津市笹子)から応援に来た武田信清は、逃れて松崎村(市原市松崎)に隠遁して松崎と姓を改め、その後は小櫃村戸崎(君津市)に移ったとされ、子孫が現存している。
(日本城郭大系より)

椎津城全景

房総の中世城館跡のなかでは同時代資料に恵まれている城である。初見資料は永正16(1519)年頃と考えられるもので(「喜連川家文書案」)、真里谷武田氏に擁立された小弓公方足利義明がいた「椎津要害」を対立する古河公方足利高基が攻めている。このことから、当時の椎津城は真里谷武田氏の属城の一つであったことがわかる。その後天文3(1534)年には真里谷武田氏の内紛を契機に足利義明によって攻められた(『快元僧都記』)。次に永禄3(1560)年には後北条氏が当地域を本貫地とする村上氏に対して「椎津大普請」を命じている(「下総国旧事記五」)。天文3年から永禄3年の間には、天文6(1537)年第一次国府台合戦で小弓公方は滅亡し、また真里谷武田氏もその間に滅亡していることから、当城は北条市の属城となった。しかし、下総方面に浸出する里見氏との間で争奪が繰り返されたようで、永禄12(1569)年には椎津城は里見氏の下総浸出の前線拠点となっていた(「豊前氏古文書抄」)。天正期に入ると北条氏は再び上総侵攻を図り、天正4(1576)年には椎津城近くに有木城(市原氏)を築いていることから、この前後には椎津城は北条氏の手に入ったものと考えられる。それ以後天正18(1590)年に北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされるまで里見氏は取り返すことはできなかった。天正期の椎津城は東京湾岸の里見氏勢力に対する境目城であったため、土気酒井氏や原氏などが交代で城番を務めていた(「三浦文書」)。北条氏滅亡後の椎津城は上総の領主となった徳川家康の家臣が入城する事なく廃城となった。
(図説 房総の城郭より)

 

 
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