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山梨県身延町

本国寺(下山城)

2013年12月22日

長栄山本国寺
甲斐源氏・加賀美遠光の孫光重は建仁年間(1201〜4)下山に入部し下山小太郎光重と称した。光重の子・兵庫介光基は文応元(1260)年、館の傍に一寺を創し、平泉寺と称し弥陀を安置した。光基の子・次郎は入道し後に因幡房日永と称し比叡山修学のみぎり最連房と相知り、文永12(1275)年最連房上人が身延山へ参る途次、この館に一泊し、因幡房もともに身延山へ登った。ここにおいて弥陀を離れ、法華に帰した。しかし、父光基はこれに従わなかったが建治3年6月日蓮聖人は「下山消息」を著して光基に寄せられた。これにより日蓮聖人の門下となって法重房日芳の名を賜わり、山号寺号の両号を現称に改めた。室町時代に入り応永25(1418)年の頃武田氏の一族穴山氏が河内に入部し、下山氏館跡に居館を構えた。当寺と穴山氏との関係は深く境内にある穴山八幡神社は穴山信君(梅雪1541〜1582)を祀っている。
(看板資料より) 


下山城址の碑


本堂


本国寺のお葉付きイチョウ

国指定天然記念物
本国寺のお葉付きイチョウ
弘安5(1282)年秋深い日、日蓮聖人持病いよいよ重くなり、常陸へ湯治にと向う途中本国寺一泊したとき一本の銀杏を植えられたのが現在の国指定天然記念物本国寺のお葉付きイチョウである。
(看板資料より) 

 



2005年07月03日

下山城址の碑

下山城は、穴山信友、穴山信君2代に渡って本拠地となったところだそうで、現在は本国寺の境内の中に上の写真のように下山城址の碑が立っているだけのようでした。


国指定天然記念物
本国寺のお葉付きイチョウ

長栄山本国寺
甲斐源氏・加賀美遠光の孫光重は建仁年間(1201〜4)下山に入部し下山小太郎光重と称した。光重の子・兵庫介光基は文応元(1260)年、館の傍に一寺を創し、平泉寺と称し弥陀を安置した。光基の子・次郎は入道し後に因幡房日永と称し比叡山修学のみぎり最連房と相知り、文永12(1275)年最連房上人が身延山へ参る途次、この館に一泊し、因幡房もともに身延山へ登った。ここにおいて弥陀を離れ、法華に帰した。しかし、父光基はこれに従わなかったが建治3年6月日蓮聖人は「下山消息」を著して光基に寄せられた。これにより日蓮聖人の門下となって法重房日芳の名を賜わり、山号寺号の両号を現称に改めた。室町時代に入り応永25(1418)年の頃武田氏の一族穴山氏が河内に入部し、下山氏館跡に居館を構えた。当寺と穴山氏との関係は深く境内にある穴山八幡神社は穴山信君(梅雪1541〜1582)を祀っている。
(看板資料より)

国指定天然記念物
本国寺のお葉付きイチョウ
弘安5(1282)年秋深い日、日蓮聖人持病いよいよ重くなり、常陸へ湯治にと向う途中本国寺一泊したとき一本の銀杏を植えられたのが現在の国指定天然記念物本国寺のお葉付きイチョウである。
(看板資料より)

県指定文化財
磬(けい)
刻銘 和泉国塩穴蓮華寺什物
延元4(1339)年5月23日とある。鎌倉時代の磬の優作として知られる。
(看板資料より)

町指定文化財
1.下山城跡
2.古仏高祖御厨子
3.法華経開結(10巻)
4.刺繍の法華経(1巻)
5.匠家雛形増補初心伝(6冊)
 文化9(1812)年下山大工石川七郎左衛門重甫著・甲州流堂宮大工の技術書
6.木鼻の唐獅子1対
 明治8(1875)年国重要文化財・睦沢学校を建築した下山大工棟梁松木輝殷の作
(看板資料より)

 

 
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