←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県松本市

稲倉城

2007年03月11日

所在地:松本市大字稲倉1523番地ほか
所有者:松山武一ほか
概略
稲倉城は山城で、室町時代初めから戦後時代末期の天正11(1583)年まで、浅間郷の領主であった赤沢氏の本城である。城は、稲倉地区北方に位置する、尾根約500mにわたって設けられ、急峻な岩壁と空堀によって堅固を誇っている。
主郭は標高約1000mで「白蛇松」といわれる老松があり、南西に五段をつけて下り大堀に達している。副郭は西斜面に帯曲輪が発達し、更に南には見物台がある。他にも曲輪があり、これらの遺構はほとんど往時のままに残っている。
(看板資料より)

場所がなかなか分からず、色々な人に聞いてたどり着いたのが竹嶋商店のところにある稲倉城の案内板でした。ここはバス停でトイレもありました。案内板によるとここから2kmと書かれており、更にちょうど付近を歩いていた人に聞いてみたら車で登っていくことは出来ないとのことでしたのでここから登るのは断念しました。その人に別のルートを教えてもらったのでそっちに行ってみました。言われた通りに林道を進んで行くと稲倉城主御屋敷館跡の看板と石碑がありました。更に稲倉城址遊歩道図もありましたが、遊歩道を発見することができず、ここから登ることも断念しました。


赤沢左衛門尉が城を築いて屋敷を構えて居住していた。建武(1334〜38)の頃から天正7(1579)年までおよそ238年ばかりここを領していた。初めは小笠原氏の末葉であったけれども、武田晴信の武威に従った。後に伊深の城主の後庁大内蔵を攻め落とし、彼の領地を武田家に差し出して忠節とした。
(信府統記、長野県の武田信玄伝説より)

 

稲倉城主御屋敷館跡

稲倉城の南西山麓の中段にある平地で、御屋敷平と呼び赤沢氏代々の居館跡。鎮守若宮八幡宮、氏寺、井戸等の跡がある。下段には三才山峠への道、西下には江戸道が通り重要地である。赤沢氏は天正11(1583)年他の諸将と小笠原に謀反を企てたのが発覚し切腹を命ぜられて亡び、城館跡は廃された。
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→