| 信玄塚 |
2011年08月15日 |
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8月15日お盆の夜、大小2つの塚を持つ信玄原にて長篠合戦(天正3年=1575年)での戦死者の供養祭、「火おんどり」が行われている。戦国時代、武田対織田・徳川両軍の激戦地1つであった竹広。長篠合戦後、村人は戦没者を大・小2つの塚に手厚く葬った。が、その夏に、塚から群蜂が発生して人馬に害を与えた。村人はこの群蜂を、武田方の戦没者の亡霊と考え、霊たちを慰めるため、大施餓鬼とともに松明をともして供養したことが、火おんどりのはじまりとされている。 |
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2011年8月15日、念願の火おんどりに出かけることができました。19時半頃から盆踊りが始まり、我々も参加させていただいた。竹広の数え歌も何度か披露されていました。そして21時になると遠く南の方から松明が見えてきました。真っ暗な中に多くの松明が見えてくると神秘的でした。そして大塚と小塚の間を何度か回った後、タイを八の字に回転させた踊りが始まりました。その数の多さと火の迫力に圧倒されてしまいました。竹広の方のお話によると、火おんどりを行う青年団や少年達は連吾川の水でお清めをしているとのこと。このお清めをすることによって火傷にならないのだそうです。火おんどりは400年以上続いている行事ですが、太平洋戦争中に一時中断したことがあるらしく、その年は蜂が沢山発生してしまい、翌年から再び火おんどりが行われることになったそうです。また火おんどりが行われるときはほとんど雨が降らないのだそうです。そういえば今日も夕方にゲリラ豪雨のような激しい雨が降っていたのですがお祭りになると雨は止んでいました。またお祭りといっても屋台が出るようなものではなく、まさに神秘的なお祭りでした。
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2006年05月05日 |
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かるたでつづる設楽原古戦場によれば、長篠・設楽原合戦後、村人たちは信玄塚に2つの大きな穴を掘り、その中に死体を埋めて塚を作りそれぞれに松を植え、北の方を大松、南の方を小松と呼ぶようになったとのことである。この大松小松は信玄塚の象徴であったが、大松は昭和34年伊勢湾台風の被害を受け、その後衰えて5年後には枯れてしまったとのこと。また小松の方はもともと一対の夫婦松であったが昭和51年に雌松が枯れ、昭和56年に雄松が枯れてしまい、現在はともに2代目の松とのことである。また信玄塚には山梨県の人々によって建てられた宝篋印塔、供養塔や、地元の人々によって建てられた四百年祭供養塔などがある。 |
大塚
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大乗妙典一千部供養塔 |
小塚
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金光明最勝王経碑 |
四百年祭供養塔
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歴史読本「長篠の戦い」によれば、昭和50年2月1日、新城市長篠の戦い四百年祭奉斎会により建てられ、鎌倉期の宝塔を模したものとのこと。 |
長篠合戦陣戦歿者供養塔
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歴史読本「長篠の戦い」によれば、昭和13年5月21日に山梨県長篠役甲軍戦没将士慰霊塔建設会により建てられたとのこと。 |
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し ふ も
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2003年10月12日 |
大塚
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天正3(1575)年、織田、徳川連合軍と武田軍の間で戦われた設楽原の戦いは連合軍側の大勝に終った。この戦いで両軍あわせて1万6千もの戦死者があったといわれている。戦場のかたづけに従事した竹広の村人は、この地に戦死者をねんごろに葬り、2つの塚を築いて弔った。これが「信玄塚」である。 そ |
小塚
長篠合戦陣戦歿者供養塔
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1999年11月23日 以前から設楽原に「信玄塚」というのがあるのは知っていましたが、なぜ信玄はこの合戦には出ていないのに信玄塚というものがあるのだろうと思っていたのですが、ここは設楽原合戦で戦死した人達を埋葬し、武田の時代は終わったことを宣言するために信玄塚と名づけられたそうである。「大塚」と「小塚」があった。 |