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山梨県北杜市

獅子吼

2013年10月13日

別名「江草城」。地域では、「城山」と呼んでいる中世の山城。山頂の広くて平坦な主郭(本丸)を中心に斜面には、平らな石を積み上げた石垣と、それらを用いて区画した多数の曲輪。斜面を縦断する縦堀りが配置されている。付近には、湯戸、駒ヶ入、根古屋、堀、西の御所内(平)等の集落及び地名がある。とくに根古屋の地名は、山城の城下町を意味する。平安時代、馬産地であったこの地方に朝廷の直轄の牧が設置され、それを統括する牧監が置かれた場所ともいわれる。そして、塩川対岸の斑山には金山があったり、また、江戸時代には関所がおかれるなど古来より重要な位置にある。城の東北にある見性寺の寺記に、鎌倉時代のおわり元応2(1320)年5月4日夜この城で信田小右衛門実正・小太郎実高、親子とその家来が討死したとある。また、武田系譜に応永年間(1394年〜1428年)武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したといわれ、見性寺には信泰の位牌と木像が安置されている。武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であったといわれ、塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」さらに甲信国境の信州峠。また西方には「中尾城」「若神子城」「大豆生田砦」「能見城」「新府城」などまで遠望できる。
天正10(1582)年壬午3月、新羅三郎義光以来の名門武田氏は信玄没後10年をでずして織田信長により悲劇的な滅亡を遂げた。その信長も6月、本能寺の変で明智光秀に殺された。この為、甲斐の国は小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった。この戦いを天正壬午の乱という。家康は韮崎の新府城に陣し、氏直は若神子に本陣を構え、大豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配した。9月の初旬、津金衆・小尾衆など武田の遺臣たちと服部半蔵ひきいる伊賀組とがこの城に夜襲をかけて落城させている。この戦いは家康の勝利が決定的なものとなっただけでなく、甲州における戦国時代最後の合戦であった。
(看板資料より)


獅子吼城と「のろし台」
「のろし」の構造には燃焼部が地上にあるものと地上を離れるものに大別することができます。地上にあるものとは、大きい穴を掘ってその中で燃やすタイプと、ここ獅子吼城にある様な煙突状のものやカマドなどの構造物をもつタイプ等があります。又、地上を離れるものには、若神子古城(ふるさと公園)に復元された様な「跳ねつるべ式」のものなどがあります。ここから見える「のろし台」は、「中尾城」「若神子城(大城)(古城)(南城)」、「大豆生田砦(島崎城)」があり、韮崎市の「新府城」「能見城」、武川村と白州町にまたがる「中山砦」が眺望できます。
又、ここ獅子吼城のふもと「根古屋」集落には、国指定の天然記念物「根古屋神社の大ケヤキ」や旧小尾街道の「口留番所」跡があるほか、対岸の「斑山」の尾根には、金山跡と伝えられる坑道があります。
(看板資料より)


帯郭

塩川流域の「のろし台」
「のろし」は漢字で「烽火」、「狼煙」などと書かれる。烽燧(ほうすい)とも言い、昼は煙(烽)、夜は火(燧)によって伝えています。武田時代の軍法を伝えるといわれている『甲陽軍鑑』には、のろしを「飛脚篝火」として記述され、夜は篝火をたいていたようです。又、「大河をもって用うべし」ともあり、塩川流域のように両岸が山地のような地形が「のろし台」設置に適したコースだったようです。
須玉町内の「のろし台」と伝えられる場所は、その背後に山があります。何故なら、昼間あげる煙の色が白(杉の葉を使用)が主流で、背景が空だと曇った日や霞のかかった日には見えにくく、背景に山があると暗い山影に白が目立ちます。ここから見える「のろし台」は、塩川流域の小尾街道(穂坂路)沿いに「馬場」(推定地)「大渡」「比志の城山」「前の山」「神戸」(推定地)があり、長野県境の信州峠へと続いている。
(看板資料より)



2003年08月30日

 

別名「江草城」。地域では、「城山」と呼んでいる中世の山城。山頂の広くて平坦な主郭(本丸)を中心に斜面には、平らな石を積み上げた石垣と、それらを用いて区画した多数の曲輪。斜面を縦断する縦堀りが配置されている。付近には、湯戸、駒ヶ入、根古屋、堀、西の御所内(平)等の集落及び地名がある。とくに根古屋の地名は、山城の城下町を意味する。平安時代、馬産地であったこの地方に朝廷の直轄の牧が設置され、それを統括する牧監が置かれた場所ともいわれる。そして、塩川対岸の斑山には金山があったり、また、江戸時代には関所がおかれるなど古来より重要な位置にある。城の東北にある見性寺の寺記に、鎌倉時代のおわり元応2(1320)年5月4日夜この城で信田小右衛門実正・小太郎実高、親子とその家来が討死したとある。また、武田系譜に応永年間(1394年〜1428年)武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したといわれ、見性寺には信泰の位牌と木像が安置されている。武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であったといわれ、塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」さらに甲信国境の信州峠。また西方には「中尾城」「若神子城」「大豆生田砦」「能見城」「新府城」などまで遠望できる。
天正10(1582)年壬午3月、新羅三郎義光以来の名門武田氏は信玄没後10年をでずして織田信長により悲劇的な滅亡を遂げた。その信長も6月、本能寺の変で明智光秀に殺された。この為、甲斐の国は小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった。この戦いを天正壬午の乱という。家康は韮崎の新府城に陣し、氏直は若神子に本陣を構え、大豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配した。9月の初旬、津金衆・小尾衆など武田の遺臣たちと服部半蔵ひきいる伊賀組とがこの城に夜襲をかけて落城させている。この戦いは家康の勝利が決定的なものとなっただけでなく、甲州における戦国時代最後の合戦であった。
(看板資料より)

塩川流域の「のろし台」
「のろし」は漢字で「烽火」、「狼煙」などと書かれる。烽燧(ほうすい)とも言い、昼は煙(烽)、夜は火(燧)によって伝えています。武田時代の軍法を伝えるといわれている『甲陽軍鑑』には、のろしを「飛脚篝火」として記述され、夜は篝火をたいていたようです。又、「大河をもって用うべし」ともあり、塩川流域のように両岸が山地のような地形が「のろし台」設置に適したコースだったようです。
須玉町内の「のろし台」と伝えられる場所は、その背後に山があります。何故なら、昼間あげる煙の色が白(杉の葉を使用)が主流で、背景が空だと曇った日や霞のかかった日には見えにくく、背景に山があると暗い山影に白が目立ちます。ここから見える「のろし台」は、塩川流域の小尾街道(穂坂路)沿いに「馬場」(推定地)「大渡」「比志の城山」「前の山」「神戸」(推定地)があり、長野県境の信州峠へと続いている。
(看板資料より)


 

上の写真のところが獅子吼城への入口です。獅子吼城の案内看板があってその左側にある道を入っていきます。ここに来るには麓の根古屋神社付近から勇気を出してとにかく山の上に向かっている道を進めばokだと思います。行きと帰りで別のルートをたどりました。


 

頂上まではそんなに歩かなくてもたどり着けますが、とにかく石が多くて歩きづらいです。運動靴で来た方がいいでしょう。


 

獅子吼城と「のろし台」
「のろし」の構造には燃焼部が地上にあるものと地上を離れるものに大別することができます。地上にあるものとは、大きい穴を掘ってその中で燃やすタイプと、ここ獅子吼城にある様な煙突状のものやカマドなどの構造物をもつタイプ等があります。又、地上を離れるものには、若神子古城(ふるさと公園)に復元された様な「跳ねつるべ式」のものなどがあります。ここから見える「のろし台」は、「中尾城」「若神子城(大城)(古城)(南城)」、「大豆生田砦(島崎城)」があり、韮崎市の「新府城」「能見城」、武川村と白州町にまたがる「中山砦」が眺望できます。
又、ここ獅子吼城のふもと「根古屋」集落には、国指定の天然記念物「根古屋神社の大ケヤキ」や旧小尾街道の「口留番所」跡があるほか、対岸の「斑山」の尾根には、金山跡と伝えられる坑道があります。
(看板資料より)

 

 
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