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群馬県高山村

尻高城

2005年04月30日

尻高城跡案内図

尻高城応永8(1401)年3月白井城主長尾重国の家臣により築城が始まる。同十年完成。重国の三男重儀城主となり尻高氏を名乗り左馬頭と号す。
小屋の村落の東北方の「ゆうげい」と呼ぶ岩山がそれで最高所が本丸、その東4mほど低く一つ掘切りを距てて二の丸がつく。本丸は径40m、二の丸は東西100m幅数m東端には5m低く腰郭がつき断崖に終わる。
西は数段の小郭から成り西南に離れて5mほど下に別の一郭がある。離れて北側に馬屋とする所あり。
(看板資料より)

尻高城(要害城・並木城)
尻高城とは、平時の里城(通称並木城)と非常時としての山城を合わせた呼称である。山城としての尻高城は、北東へ1.5kmの小屋地区北面に位置する岩上の要害城で、土地ではここを「ゆうげい」ともいう。応永8(1401)年白井城主長尾重国の家臣により築城、同10年完成、三男重儀城主となり、尻高氏を名乗り左馬頭と号した。尻高・大塚・平・赤坂・市城までの、2024石を領有し、威勢は盛んであったが、築城から滅亡まで約180年、武田・上杉・北条方の勢力の争点の中にあって苦難を続けた。
山城跡は四面急峻なる地形にて、本丸・二の丸・その間を隔てる堀り切りや幾つかの小郭から成り立ち、現今も6基の石宮と切り石(貯水槽)があり城の形を残している。
並木城(北東へ300m)は尻高氏の平時の居館として築いた里城で腰曲輪の部分・武者走り部分は認められるものの、基部の掘り切りもなく、郭外との郭絶も不十分で、古い館城と思われる。現在は石宮1基だけが存するのみである。
(麓の看板資料より)

頂上付近の石宮

尻高城は戦国時代の尻高氏の居城で、永禄8(1565)年の武田信玄の上野攻略の時の目標としてあげられた5つの城のひとつであったらしい。その後、天正2(1574)年に武田家の家臣である真田昌幸に攻められて滅亡した。
(群馬県の歴史散歩より)

尻高城は沼田から中之条に向う日本ロマンチック街道から少し北に入って行ったところにありました。国道145号線の近くに麓の看板があり、そこから少し登っていくと少し分かりにくいのですが一番上の写真のような石碑と案内板があります。この付近に車を止めさせていただいて歩いて登りました。頂上付近までは30分くらいはかかると思いますので少し気合が必要です。急斜面や足場が悪いところもあるので運動靴のヒモをしっかりしばってから登りましょう。尻高城跡案内図は少し分かりにくいのですが、ここから奥に向って行き突き当たりを右に曲って暫く行くと左に入っていく山道があるのでそこが入口です。そこからは案内板が点在しているのでどんどん進めば頂上にたどり着けると思います。案内板もあまり親切ではないので周りの景色をしっかり覚えておかないと帰り道で道に迷ってしまう恐れがありますので注意しましょう。
ある程度まで登っていくと奇岩が現れてきました。大きく左から迂回して登っていくのですが、その構造は志賀城とよく似ているような気がしました。詳しいことはよく分かりませんが、上信国境付近の山城の特徴なのかもしれませんね。

 
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