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愛知県新城市

鳥居強右衛門磔死之碑

2014年08月15日

天正3(1575)年5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千人の軍勢を率いて長篠城を取り囲んだ。奥平貞昌を城主に、わずか5百人の兵が長篠城に籠城した。城の兵は、武田軍の猛攻をよく防いだが、落城寸前となってしまった。この時、城主の命を受けた鳥居強右衛門と鈴木金七は川伝いに城を抜け出し、家康のいる岡崎城へ援軍の要請に向った。家康と信長に会い、城内の様子を伝えた強右衛門は、「援軍来たる」の返事を持って一足先に城へと向った。かんぽう山で合図の「ノロシ」をあげた強右衛門は、城中へ戻る途中、有海の篠場野で武田軍にとらえられた。
強右衛門は、武田方から「"援軍は来ない"と言えば助ける」と言われ、城中が見渡せる場所へ連れてこられた。城兵を前にして強右衛門は「援軍は来る」と大声で叫んだ。
勝頼は「勇気の士」としてその行動をたたえたが、武田の将兵によって、この地で磔となった。この強右衛門の行動がきっかけとなり戦いの舞台は、長篠から設楽原へと移っていった。
(看板資料より)

 



2006年05月06日

長篠・設楽原一帯の地名

天正3(1575)年5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千人の軍勢を率いて長篠城を取り囲んだ。奥平貞昌を城主に、わずか5百人の兵が長篠城に籠城した。城の兵は、武田軍の猛攻をよく防いだが、落城寸前となってしまった。この時、城主の命を受けた鳥居強右衛門と鈴木金七は川伝いに城を抜け出し、家康のいる岡崎城へ援軍の要請に向った。家康と信長に会い、城内の様子を伝えた強右衛門は、「援軍来たる」の返事を持って一足先に城へと向った。かんぽう山で合図の「ノロシ」をあげた強右衛門は、城中へ戻る途中、有海の篠場野で武田軍にとらえられた。
強右衛門は、武田方から「"援軍は来ない"と言えば助ける」と言われ、城中が見渡せる場所へ連れてこられた。城兵を前にして強右衛門は「援軍は来る」と大声で叫んだ。
勝頼は「勇気の士」としてその行動をたたえたが、武田の将兵によって、この地で磔となった。この強右衛門の行動がきっかけとなり戦いの舞台は、長篠から設楽原へと移っていった。
(看板資料より)

鳥居強右衛門磔死之碑は豊川を挟んで長篠城のちょうど反対側の場所にあります。以前来たときは石碑があっただけだったと思うのですが、今回訪れた時は「長篠と設楽原を結んだ鳥居強右衛門」という大きくて立派な案内板が設置されていました。現在は石碑の奥は木があって長篠城を確認することはできませんが、当時は、見せしめのためこの地で磔にされた様子を城内からも見ることができたのでしょう。

 



2003年10月12日

磔に散る烈士 鳥居強右衛門
5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。城中の食料はあと4、5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜けてた。梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川をくだること4km。
15日朝、かんぼう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走った。(長篠〜岡崎は50km)
岡崎には援軍の織田信長も到着していた。家康、そして信長の前で城の危急を訴えまわりの人々も感動した。使命を果たして休養をすすめられたが、彼はすぐ引き返した。
16日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙3発。そして長篠城の対岸まできたが厳重に警戒する武田軍に捕えられた。
武田軍から「援軍はこない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った。(この時城は本丸と二の丸だけが残っていた)
しかし「援軍は来る。この眼で見てきた。あと2、3日、堅固に守れ」とさけんだので、対岸の篠場野の地で磔にされた。
強右衛門その時36才。18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に到着して陣をしいた。
(長篠城内の看板資料より)

 

 
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