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群馬県みなかみ町

諏訪の木城

2012年12月23日

三国街道の北側台上に築かれ、東半は兵力の多寡により取捨する「捨て郭」である。天正9(1581)年6月、真田昌幸は塩原源太左衛門を置き、同17年、北条氏の手に移って望月主計・塩原清左衛門が守った。
本丸は方44m、二の丸は本丸の北から東を囲む。本丸虎口は北に開き、追手は二の丸東虎口で、堀切に「折」があって北側から前面を側防する。この城の土居・掘の斜面が野面積みの石垣で被覆されているのは、県下の城類跡では珍しい例である。
(日本城郭大系より)

掘跡

麓の野菜直売所で但馬院の場所を確認して、まずは但馬院へ向かいました。但馬院には諏訪の木城の縁起が書かれていました。チャイムを鳴らしてお寺の人に諏訪の木城の場所を聞いてみたら、野菜直売所の横の道を登ったところに神社がありその横の沢の向かい側全域であるとのことでした。
実際に神社を見つけることはでき、沢の向かいのお宅で畑仕事をしていたご老人に諏訪の木城について聞いてみましたが、城の場所は分からないが、昔諏訪の木という場所にあった祠をこの神社に移してきたとのことでした。このご老人に「日本城郭大系」に載っていて城の絵図を見てもらって大体の場所の確認をして現地へ向かいました。
すると家の大掃除をしていたお宅にいた方に諏訪の木城について聞いてみたところ、一番上の写真のところが本丸であると教えてくれたのです。小さい頃はこの辺りで良く遊んだのだそうです。雑草が鬱蒼と生えていたのですが堀らしきものも確認することができました。


但馬院

諏訪の木城の縁起
今は昔、天武天皇の時代、およそ千六百年前戦乱の時、足利一族より関東の偵察隊としてこの地(新治村羽場諏訪の木平)に入ったと言い伝えられる。
諏訪の木城は三方を自然城壁で囲まれた天然の城であり、本丸、二の丸、三の丸を有し、北の守りは、平地のため特殊砦(くるわおとし)と呼ばれる方法が取られていた。
諏訪の木城は沼田城とも深い因縁を持っていた、沼田城主真田政幸公の子伸吉の婚姻の際多額の借金借り入れを諏訪の木城よりしている(古文書須川河合宅)書籍が現存している。
又、真田伊賀守信澄の姉で真田河内守伸吉の長女(徳川家康の孫娘)名前は国といい正保3(1646)年17歳で関但馬守義範に嫁いでいる。その後長尾、上杉一族の関東進出により北の砦を守っていた諏訪の木城は攻め滅ぼされたが但馬守義範の子義全が剃髪し開山したのが、醫王山但馬院の始まりであります。
由緒ある歴代住職の中でも11世不可得尊師、12世南寿法印薫山は、日本の名僧を列記した日本高僧伝、群馬の偉人伝にも記載されています。
不可得尊師は、一般には書家として有名で、作風の変化に富んだ書籍等が幾多残されている。薫山尊師は当院中興の住職で15歳で大峰山に入り修行、京都に往き聖護院雄仁親王を拝し妙決を受られ、苦行しながら勉学に勤しみ、三僧祇から権大僧都となり最後は大講議に補せられ、群馬県下一派正管事を命ぜられる。
江戸から明治にかけての学者であり、文学者であり、算術者であり、行者であり、陰道者と全てに通じた傑出の銘僧であります。
功績の碑文は但馬院の本堂の前に立てられています。
(現地案内板より)

 

 
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