←前のページ トップページ↑ 次のページ→

岐阜県恵那市

大将陣と大将塚

2014年03月22日

天正3(1575)年5月、長篠の戦いにおいて武田勝頼軍に大勝した織田信長は、すぐに長男信忠に3万の大軍をさずけ、武田側の岩村城攻撃を命じた。信忠は岩村城を包囲すると、ここに本陣を置いて指揮したのでこの丘を大将陣と呼ぶようになった。
岩村城の包囲攻撃は5ヶ月余り続いた。城主は武田二十四将の一人、勇将秋山信友(伯耆守晴近)であるが、冬も迫り援軍の望みも絶たれたため、城兵の助命を条件に降伏した。
しかし、信長は前城主遠山景任の養子となっていた五男、御坊丸(織田勝長)が秋山のため人質とされて甲府の武田信玄のもとへと送られたことと、叔母である遠山景任未亡人が信長を裏切って武田側の秋山と結婚し、岩村城を武田側へ渡したことに激怒していたから、約束を破りこの丘で秋山夫婦、座光寺、大島らの武将計5人を逆磔にして殺した。
5人の首を葬った塚を大将塚という。
一方、助命を約束された城兵三千人(婦女子を含む)は信州を目指して城を出たが、木の実峠にかかったとき、前後左右から織田の伏兵に攻められて全滅した。
この大将陣で処刑した信長の叔母のことを女城主と呼んでいる。
江戸時代となって岩村城主丹羽氏純が5人の霊を弔うため、ここに五仏寺を建てたが、丹羽氏は5代目氏音のとき、お家騒動が原因で越後へ国替えになり五仏寺も廃寺となった。
(看板資料より)

大将塚


巌邑城址碑

この石碑は岩村城の歴史を残そうと、廃城後20年近い明治24(1891)年に建てられた。碑文は漢文で書かれているが、岩村城の歴史を要約してまとめ、なかなかの名文である。若干史実と相違する点もあるがそのまま碑文を略記する。
「建久年間(1190〜1198)に加藤景廉がここに居た。その子景朝が遠山氏と称した。景朝の子孫の景任は元亀3(1572)年に没したが子が無かったので織田信長の子勝長を養子としあとを継がせた。景任の妻は信長の叔母であった。
武田信玄は部将秋山晴近に攻めさせ、晴近は信長の叔母を妻とした。信長大いに怒り晴近夫婦を殺した。
天正3(1575)年河尻鎮吉をもって城主とし、同10年河尻を新府(甲府)に移すと森蘭丸をもって城主とした。蘭丸死するや兄長可を城主とし、部将各務兵庫に命じて代理で守らせた。」
以降については田丸貝安、松平家乗、乗寿と続き、ついで丹羽氏が五代在城したが、元禄15(1702)年罪があって禄高を削られ移された。変わって松平乗紀が城主となり、その子乗薀は学を好み賢を愛した。乗薀の子は林述斎となり、佐藤一斎という名儒も出た。乗保、乗美、乗喬と続き乗命の代に明治維新となり版籍を奉還して東京へ移った。銘は岩村城の歴史を不朽に伝え旧家臣は代々城主の徳を慕っているとしている。
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→