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京都府京都市

高松神明社


2016年02月21日

神社の境内にお地蔵さんをお祀りすることはめったにありません。「神明地蔵尊」はその例外で、大変珍しいといわれています。永禄8(1565)年、このお宮は「高松神明宮宝性院」といい、神官はいません。最初の社僧、宥玉法印(伝燈法師位法印大僧都宥玉)は山之内(右京区)からお入りになり、その後約三百年間、明治元年の「神仏分離令」まで、社僧がお祀りをしていたのです。
「神明地蔵尊」は寛政6(1794)年、「高松神明宮宝性院」(真言宗東寺宝菩提院の末寺に属していた)の社僧が紀州九度山の「真田庵」(高野山真言宗宗伽羅陀山善名称院)に毘沙門天と共に安置されていた二体の地蔵尊のうちの一体を拝領して参り、同年6月、神殿の東側に三間四面の地蔵尊を建てました。
智将で知られる真田幸村の念持仏でありましたので、「幸村の知恵の地蔵尊」としてお祀りしました。大変美しいお姿の半跏坐像のありがたいお地蔵さんは、多くの参詣者から信仰され、活況ある境内となりました。
約50年後の天保11(1840)年10月、東西二間南北三間半、切妻破風の屋根の地蔵堂に建て替えました。元治元(1864)年7月、蛤御門の変により、当社も罹災しました。
境内の稲荷神社、不動明王、弘法大師、金毘羅神社等と一緒に地蔵堂も焼失しましたが「神明地蔵尊」のみがご無事でありました。明治になって神仏混淆が禁止され、宝性院は廃寺となり、高松神明神社だけが残りました。廃仏の憂き目にあわなかった「神明地蔵尊」は、社務所内でずっとお祀りを続けていましたが、明治26(1893)年、本殿の西側の現在地に地蔵堂を建てて、お祀りをするようになりました。
地蔵堂正面の台石をさすって、子達の頭をなでますと、智将幸村にあやかり、知恵を授かる御徳がございます。地蔵尊にお供えをいただいた洗米と小豆を蓄えておいて、地蔵堂に小豆粥としてお詣りのみなさまに供養したと伝えられています。
(看板資料より)


真田幸村公の念持佛「神明地蔵」
剃髪した衣姿の僧形地蔵。右手に錫杖。左手に如意宝珠。旅姿は六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道)という輪廻の苦しみの世界を廻って人々を救済されるといわれています。
真田庵より拝領以来、何度もの大火にも戦火にも、維新の廃仏毀釈にもじっと耐えて生き残られた強いお力を持った半跏坐像の「神明地蔵」であります。京都では、お地蔵さんのお力をいただいて、子どもを丈夫に育てる地蔵盆行事も盛んであります。神明さんにお参りをして由緒ある桃山時代四百年以上の昔からのお姿のままの「神明地蔵」の台石をさすり、子どもたちの頭をなでて「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」幸村公の智慧を授かる御徳をいただくのです。
慶長20年大阪夏の陣での武将幸村公の戦いぶりは特に有名であります。大阪城南の台地茶臼山に陣取って、徳川の大群と対峙した真田隊は兵の甲冑を赤色(赤備え隊)に統一し、幸村公は十文字槍を手に家康の首ただ一つを狙って本陣に突撃します。決死の決意を持った突撃に慌てふためいた家康自身は自害を覚悟したといいます。
こうした智略の武将幸村公への敬意が、幸村公の念持佛「石地蔵」(神明地蔵)の智慧をいただく信仰に結びついていると思います。
(看板資料より)

 

 
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