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愛知県豊田市

田代城

2014年03月23日

田代城は、通称「京ヶ峰」と呼ぶ山の西麓にあって、近くの大沼城とともに足助七城のひとつに数えられていました。遺構は、本曲輪、曲輪、堀切などが山の斜面に沿って階段状に分布していますが、古い田代城城絵図によるとこれらは居館跡で戦時の拠点は京ヶ峰の山頂にあったことが分かります。また、居館の南西300mの尾根の先端には出曲輪の跡があります。
城の歴史に関する詳細は不明ですが、「三河国ニ葉松」には城主として森外記、松平主税或甚五左衛門の名が挙げられています。
この田代城も、大沼城と同様に天正2(1574)年4月<元亀2年とする説もある>、甲斐の武田軍に攻め落とされました。またそれ以前の天文・永禄年間(1550年ころ)のこととして「東照軍鑑」には、駿河の今川氏が竹千代(家康)などを田代城へ出兵させ松平道久を攻め降したことが記されています。なお、付近には「お城下」「お屋敷」など、田代城に関連のある地名が今も残っています。
(看板資料より)



2003年10月11日

田代城絵図


田代城は、通称「京ヶ峰」と呼ぶ山の西麓にあって、近くの大沼城とともに足助七城のひとつに数えられていました。遺構は、本曲輪、曲輪、堀切などが山の斜面に沿って階段状に分布していますが、古い田代城城絵図によるとこれらは居館跡で戦時の拠点は京ヶ峰の山頂にあったことが分かります。また、居館の南西300mの尾根の先端には出曲輪の跡があります。
城の歴史に関する詳細は不明ですが、「三河国ニ葉松」には城主として森外記、松平主税或甚五左衛門の名が挙げられています。
この田代城も、大沼城と同様に天正2(1574)年4月<元亀2年とする説もある>、甲斐の武田軍に攻め落とされました。またそれ以前の天文・永禄年間(1550年ころ)のこととして「東照軍鑑」には、駿河の今川氏が竹千代(家康)などを田代城へ出兵させ松平道久を攻め降したことが記されています。なお、付近には「お城下」「お屋敷」など、田代城に関連のある地名が今も残っています。
(看板資料より)

 

 
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