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山梨県甲府市

東光寺

2005年01月09日

 
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法蓋山東光寺といい臨済宗妙心寺派のお寺であり甲府五山の一つである。伝えによれば新羅三郎義光が保安2年(1121)に国家鎮護仏法興隆の祈願所として諸道を建立、本尊に釈迦如来を安置し、興国院と名付けたことに始まるとのこと。
文永5年(1268)に建長寺開山である蘭渓道隆が元のスパイという根拠の無い理由で甲斐に流され、蘭渓道隆によって再興された。
信玄の時代の住職は藍田和尚だが彼は武田二郎といい信玄の伯父にあたる。天正十年武田滅亡後に恵林寺にて高僧が殺されたがこの中に藍田和尚もいたという。
その後柳沢吉保によって保護され壮大な敷地に数多くの建物が建てられたが、明治維新後の廃物棄却で広大な土地などが政府に上納された。
(パンフレット資料より)

東光寺の歴史
当山は法蓋山東光寺といい、臨済宗妙心寺派の寺である。伝えによれば草創は平安時代末期、甲斐源氏の祖新羅三郎義光が保安2(1121)年、国家鎮護仏法興隆の祈願所として諸堂を建立。本尊に釈迦如来を安置、興国院と名付けたことに始まるといわれる。
鎌倉五山建長寺開山、蘭渓道隆禅師は、文永5(1268)年、元国(今の中国)のスパイなど、根拠のない噂から甲州に配流され当山に入山した。そのため臨済宗とつながりが生じ、密教から禅宗寺院として七堂伽藍が整備された。道隆禅師入寂後も、門弟・法孫により清規は維持され、甲州禅文化の中心的存在となった。
幕府の禅宗官制度では、五山十刹の諸山にその名を連ねた。このころ(1320年代)寺号の興国院を東光寺と改めた。
東光寺の歴史には不明な部分が多い。室町時代まで歴代住職すら不明で永正8(1511)年にはじめて、仁甫珠善禅師(歴代二世)の名が出てくる。この頃には鎌倉建長寺派との縁もなくなり妙心寺派と変わった。
室町時代は武田家の保護尊宗を受け寺運は栄え、諸堂が整備された。武田信玄は臨済宗妙心寺派に深く帰依し、鎌倉・京都五山にならい「甲府五山」を開いた。長禅寺、東光寺、法泉寺、能成寺、円光院がそれである。
信玄の時代、当山の住職は藍田恵青和尚であった。藍田は信玄の伯父に当たり幼名を武田二郎といい、仁甫禅師につき出家得度した。信玄の帰依は厚く、天文年中、諸堂は再興され寺域は整備された。
天正10年4月3日、武田滅亡後織田信長は、恵林寺の僧70余人の雲衲らを山門楼上に集め火を放った。快川国師ら高僧は偈を唱え火定に入った。高僧の中に東光寺藍田がいたことは有名である。
江戸期に入り甲府城主柳沢家の保護を受け、享保2(1717)年、仏殿・薬師如来・十二神将像などが修理され面目を一新した。柳沢吉里の嫡子、幸三郎享保3年に、時英も同7年早世した。吉里は当山に墓塔を建て二児の菩提を弔った。そのため柳沢家の帰依は厚く、吉里自筆の書画が寄進された。
慶応4(1868)年の寺記による規模は御朱印地14石4斗、境内3708坪、山林35町歩余、本堂、仏殿、禅堂、庫裡、役寮、書院、浴室、拈案寮、惣門、中門、黒門、裏門、土蔵、納屋、高春院、耕雲院など、七堂伽藍と数多くの建物は壮観を極めた。
明治維新を迎え廃仏毀釈の令により広大な寺領や、寺の背後の法蓋山をはじめとして政府に上納された。昭和2(1927)年、仏殿は国宝建造物に指定。20年7月6日、甲府大空襲で本堂、庫裡は焼失。幸い仏殿、山門、鐘堂は残った。先の天正壬午、織田の兵火もまぬがれた。昭和25年、仏殿は重要文化財の指定を受け、31年解体修理に着手。翌年現在の美しい姿に生まれ変わった。その後、本堂、庫裡、書院、庭園が整備された。
(パンフレット資料より)


仏殿

東光寺仏殿は、国指定の重要文化財で武田氏に保護され天文年間(1532〜54)、信玄の援助で諸堂が再興されたといわれ、甲府五山の一つとして盛観を誇った。天正10(1582)年4月、武田滅亡後、織田信長は甲府善光寺に本陣を置き、東光寺を焼いた。しかし不思議に仏殿だけが焼け残った。仏殿の中の柱に織田軍が乱入した時の刀きずが残っている。
昭和20年7月6日の甲府大空襲でも諸堂は焼失したが、仏殿だけが焼け残り、奇跡的な因縁を感じさせる。
この仏殿は薬師如来を安置することから薬師堂ともよばれている。建築年代は資料がないので確証できない。様式的には室町時代といわれている。仏殿・塔などにみられる、軒下の壁面もこしは、後世の修理改築で現在の姿になったが、発見された棟札により、寛永6(1629)年の大修理によるものといわれている。
仏殿は低い基檀上に建てられ、方三間(約5.4m)、もこしつきでもこし柱は面取り角柱である。正面中央は引き分け桟唐戸、両わき四間は格子戸、特に唐様の特色である粽つきの円柱と礎石の間に礎盤を入れ、桧皮ぶき重層入母屋様式の屋根は、宋時代の禅寺を思わせる優雅な室町時代の様式を伝えている。
昭和31年に解体修理が完成し、現在の美しい姿は、清白寺仏殿・最恩寺仏殿とともに、中世禅宗建築を知る重要な建造物といえる。
(パンフレット資料より)


庭園

県内寺院の庭園で、ずばらしい庭園といえば、夢窓国師の作庭であるという見方が一般的であるが、東光寺庭園は、蘭渓道隆の作庭である。
この寺は鎌倉建長寺から入山した禅僧道隆が開山であることははっきりしているが作庭の資料はない。
庭園の広さは約450坪で本堂の後ろにあり、寺の背後にせまる山をそのまま築山とし、山麓の傾斜地を利用して滝ぐみをほどこし、手前に池泉を配した庭園である。
東光寺の庭園は、県内に多くみられる大和絵式の作庭とはまったく異質で、北宋山水画風の作庭法は、中国風のテーマであり、蘭渓道隆の手になるものと考えられる。
道隆の作庭は、園遊式の庭園とかけはなれ、庭全体を占める池の面積は小さく、地元産の大小の石、奇石をたくさん使い、禅寺特有の厳しさと枯淡の造形美をあらわしている。
東光寺庭園は池泉観賞式庭園といい、滝は中国黄河中流の、伝説の「竜門瀑」の滝を登った鯉が、竜に化身するさまを、自然石の石組みで見事に表現している。滝の落ち口の前方には、人工石の舟が浮かび、蓬来山を表した山形石を組んだ景色は、一幅の北宋山水画名画を思わせる山梨における第一級の名庭である。
この庭園は、山梨県の名勝に指定され、昭和61年に補修復元工事が行われた。
(パンフレット資料より)


武田義信の墓

武田義信公と東光寺
信玄の嫡男義信は天文7(1538)年の生まれで母は三条夫人である。義信の妻は駿河今川義元の娘で、甲・駿のきずなとなった。信玄は西上の志に燃え、義元の死後、駿河を押さえ東海地方へ進出を心に決めていた。義信は父の駿河侵攻に反対。義元の仇敵織田信長と結んだことにも強く反発し、父子の確執の溝は深まっていった。
信玄は親今川派で義信の守役飯富虎昌を成敗。義信を当寺へ幽閉した。
永禄10(1567)年10月、義信は死んだ(30歳)。死因は自殺・病死ともいわれ、真相は分かっていない。甲・駿の不和が義信の命を縮めたことに間違いない。法名は東光寺殿壽山良公大禅定門で、当寺に葬られている。
(パンフレット資料より)


諏訪頼重の墓

諏訪頼重公と東光寺
信玄は天文11(1542)年、突如諏訪領に侵入諏訪氏を滅ぼした。諏訪頼重の妻は信玄の妹禰禰であり、義兄弟を攻めたことになる。信玄は頼重反対派の高遠頼継らの内乱に介入、高遠派と結び7月4日、頼重の本城桑原城を囲んだ。
信玄は「開城すれば甲州へ陣を引く」という和議を入れた。頼重はこれに同意。「甲州へかうさんいたし、武田殿に人数を申うけ、同名信濃(高遠頼継)に腹を切らせへきおほしめし…。」というつもりであった。頼重は信玄より一族の高遠頼重をうらみ「真の敵は誰か」を見抜けなかった。頼重は5日甲府に護送され当寺に幽閉。21日自殺した。27歳の若さであった。墓は本堂の裏にあり、武田義信の墓と並んでいる。
(パンフレット資料より)

 



2005年01月09日

東光寺庭園
この庭園は広さ約1.485平方メートル、法堂の裏手にのびる山畔を活かして上部に組まれた雄渾な中央滝を主景にして左右に展開する石組みをみせ、枯れ流れの末端に変化に富む護岸石組みの竜池をたたえた。坐視的池泉観賞庭園として傑出するものである。
とくに滝石組みの手法は京都の天竜寺、信濃の光前寺庭園など、寛元4(1246)年来朝した中国の僧蘭渓道隆に関係ある寺院のそれに共通するところから、東光寺の中興開山道隆(大覚禅師)の手になるものと推定され、従来の回遊式庭園から一変して縦の線を強調した禅庭の基準ともみられ、その後の築庭に至大な影響を及ぼしたと考えられる名園である。
(看板資料より)


東光寺仏殿

東光寺は、蘭渓道隆によって鎌倉時代に再興された臨済宗の寺である。仏殿は天正10(1582)年の織田信長の兵火及び昭和20(1945)年の戦災を免れて今日に伝えられたもので、建立年次は明らかではないが、様式からみて室町時代の建築とされている。
桁行3間、梁間3間、裳階つきで、入母屋造、桧皮葦である。江戸時代初期の修理で、裳階部分が改造され、外観の変更を余儀なくされているが、低い基壇・竿縁の天井・裳階の角柱・窓・引戸などの部分に、大陸の建築が日本化する過程を示し、清白寺仏殿(山梨市)、最恩寺仏殿(富沢町)と並んで中世禅宗様建築を知る上で貴重である。
昭和31年解体修理が行われた。
(看板資料より)

東光寺仏殿内部の様子

木造薬師如来坐像
木造薬師十二神将立像
仏殿の本尊として安置されている薬師如来坐像は、鎌倉時代に造られたもので、右手を曲げ手のひらを正面に向け、左手は膝のうえで薬壷をのせている一般的な薬師如来像である。檜材の寄木造りで座高51.5cm。我が国の保守系仏師の手によって造られたと推定される。
十二神将立像は、薬師如来の守護神として本尊の三方を取り囲んでいる。これも檜材の寄木造りで玉眼が嵌入されており像高は85cm前後でやや小柄な造りである。像の一つには弘長2(1262)年の墨書があり鎌倉時代の像である。しかし技法や彩色法などに異同が認められ、造られた時期や補修の時期に差異のあることが推定される。姿態や衣服・鎧等の細部にわたって写実的に入念な仕上となっており、美術史的にも重要仏像である。
(看板資料より)


武田義信の墓

義信ハ晴信ノ長子。天文7年ヲ以ッテ生マル。母ハ三条夫人ナリ。永禄8年故アツテ幽閉セラレ、同10年逝去ス。東光寺殿籌山良公大禅門ト云ウ。
(石碑記載文章より)


諏訪頼重・禰々の墓

諏訪頼重ハ天文11年7月武田氏ニ亡ボサレ甲府板垣信形邸ニ幽閉セラレ7月20日ニ自尽セリ時27才祢々夫人ハ武田信玄ノ妹ニテ翌12年正月19日16才ニテ歿ス 二人墓ナリ
(石碑記載文章より)

向って右側が諏訪頼重の墓であり、その左側にある小さな墓が諏訪頼重夫人である禰々の墓といわれています。禰々は武田信玄の妹であり、16才で亡くなったとのことです。2人の間には寅王が生まれましたが、武田信玄の諏訪攻略戦の際に担ぎ出されて利用されました。その後の消息は不明とのことです。


東光寺には、武田信玄の長男義信の墓と武田信玄が滅ぼした諏訪頼重の墓が並んでいる。考えて見れば、諏訪頼重は義信失脚後武田家を継いだ勝頼の祖父にあたる人であり、この二人は隣同士に墓を並べてあの世でどんなことを語り合っているのでしょうか?
またここの仏殿は室町時代から燃えることなく残っている貴重な建築物であり、今回訪れたときは前が開けられていて中を見ることができました。義信も頼重も東光寺に幽閉されていたわけですが、ひょっとしたらこの仏殿にいたのかもしれません。そうでなくても、彼らもきっとこの仏殿を目にしていたであろうし、触れていたかもしれません。そのときの建物が現代にも残っているわけです。

 



2001年02月18日

法蓋山東光寺といい臨済宗妙心寺派のお寺であり甲府五山の一つである。伝えによれば新羅三郎義光が保安2年(1121)に国家鎮護仏法興隆の祈願所として諸道を建立、本尊に釈迦如来を安置し、興国院と名付けたことに始まるとのこと。
文永5年(1268)に建長寺開山である蘭渓道隆が元のスパイという根拠の無い理由で甲斐に流され、蘭渓道隆によって再興された。
信玄の時代の住職は藍田和尚だが彼は武田二郎といい信玄の伯父にあたる。天正十年武田滅亡後に恵林寺にて高僧が殺されたがこの中に藍田和尚もいたという。
その後柳沢吉保によって保護され壮大な敷地に数多くの建物が建てられたが、明治維新後の廃物棄却で広大な土地などが政府に上納された。
(パンフレット資料より)


東光寺仏殿

仏殿は天正十年(1582)の織田信長の兵火や、昭和20年の戦災を免れて今日に伝えられている。建立された時期は不明だが様式からみて室町時代のものとされている。
(パンフレット資料より)


諏訪頼重の墓


信玄の長男である武田義信の墓


本能寺

 

 
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