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和歌山県高野町

豊臣秀吉墓所


2009年05月02日

奥の院御廟の橋の近くまで行ったところの向って左側に豊臣家墓所と彫られた大きな石碑があって階段を登っていくと広い敷地があって柵の向こう側に数体の五輪塔がありました。他の墓所は所狭しと巨大な墓石が乱立していますがここだけは別格のように広々としていました。豊臣秀吉は武田勝頼とは長篠・設楽原の合戦で相対しているので今回取り上げました。

天正10年、信長が武田氏を滅ぼした時、秀吉は毛利氏に向って中国にいたので、その戦には従軍しなかった。勝頼が死んで甲斐が平定されたと伝え聞いて大息し、「勝頼のような人を殺したのは惜しいことだ。わしがもし軍中にいたなら、強いて諌めて勝頼に甲斐と信濃の二州を与え、関東の先陣にしたとすれば、東国はたちまち押しまくれたものを」とくり返して悔やんだという。
(名将言行録より)

 


羽柴秀吉陣地

 

 
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