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長野県南佐久郡南牧村

海尻


2015年06月28日

所在地 南牧村大字海尻下殿岡
城の種類 山城
城の構造
山の尾根の末端で大月川の深い谷を選んで構築。本丸、二の丸、三の丸があり、西側の背面は大掘切で守られている。城の南側は日向前、北側を日陰窪と呼んでいる。
海尻城の伝説歴史
前山城主伴野氏の幕下井出長門守の築いたものという。村上氏の臣薬師寺右近らがこの城を守っていたが、天文9(1540)年正月16日に武田の将板垣信方の知略をもってこの城を陥れ、本城を小山田備中守昌行に守らせた(一説には勇略あり守備の術に優れていた昌行の父昌辰とも云われた)。二の丸は日向大和守昌時に、三の丸は長坂左衛国清が守った。けれども同年12月海尻の地士(じざむらい)等の一揆が村上氏の意に通じ声援を得てこの城を囲み攻めた。村上氏の将額岸寺和泉光氏等が二の丸まで陥れたが、本城は固く守り降らず既に12月晦日甲州より武田の将軍の到着により村上勢は敗退した。世に言う海尻城の合戦である。(千曲真砂)
この海尻城の戦は戦国時代でも極めて重要な戦いの一つで、武田信虎はこの勝利によって得た海尻城を前進基地として5月には佐久に攻め入り、36城をおとす。8月に海ノ口に伝馬を置く。このころ平沢が小倉の地より現在地に移り伝馬役をする。
海尻城の伝承
八ヶ岳の東麓の突出した尾根の先端に築かれた山城で北八ヶ岳から流れる大月川と千曲川を眼下にし、南は西から流れる新田川に沿った釜の前(溝の前か)という腰までつかる湿地帯で、更に南には湯川、高石川が千曲川に流入している。
城は山頂(愛宕山)が本丸で、東に40メートル下現在の海尻集落の中心部がある殿岡地区が二の丸で、日陰窪医王院から諏訪神社が三の丸、水の手は医王院と諏訪神社境内にあり、水道が引かれる前は利用されていた。
江戸末期文政、嘉永、安政の時代二の丸と思われている地点より、城の創築の際地固めのために六方へ埋めるといわれる真言秘密の丸い石が出たり、城の鬼門に埋めるという北方を守る多聞天像、東方を守る持国天像(何れも金銅で高さ10、5センチ)、が出土している。戦時に思いをはせると本丸に領主のいる本部があり、武者の寝起きする居住施設等の構築物があって、戦うときに足手まといになる家族がどうしていたかは不明で、秘密の地下壕に避難していたかもしれない。この穴を調べると奥まった場所は、二つに分かれ行き止まりになっており、右側には一人が腰掛けられるように段差になっていた。現在は国道に分割されて面影はない。
武田軍の進入路
甲斐国(山梨県)から信濃国(長野県)に入るには諏訪口と佐久口のニ道があり、武田軍の佐久攻略は千曲筋に沿って行われた。武田晴信は甲府躑躅ヶ崎の甲府市古府中武田館を出、千塚(湯村付近)から穂坂路を経て若神子に達した。それより長沢、平沢を過ぎて大門峠(平沢峠)を越え、野辺山原を通って海ノ口に下り海尻、宮の上(現小海高校付近)臼田を経て前山に達する道筋(高白斎紀)
武田軍の烽火台
千曲川の東に位置する海ノ口城西方2キロメートルの山には大遠火という地名が残っており、尾根を登ると標高1303メートル(二等三角点)あたり遠見に達する。(海尻城と真東)ここは遠望がきき烽火台では最適な場所と思われる。
@山梨県高根町玄田山(源田山)大門ダム上の独立山
A平沢峠付近の山(風の三郎)南牧
B海ノ口城西山 南牧
C花岡烽火台(佐久町花岡)
D虚空蔵山烽火台(佐久市岸野地区竹田)
古代の烽火の距離は11キロメートルから15キロメートル位になっている。
地名の由来
時平安時代仁和4(888)年5月8日突然八ヶ岳(みかぶり)が水蒸気爆発を起こして崩れ、天狗岳で崩壊した泥流は大月川の谷に流れ出し、佐久の村々を押し流した。(日本紀略)
そのとき海の口と海尻の間に湖ができた。寛弘8(1011)年8月3日下の深山が決壊し大峡谷をつくり、その湖が干潟となって平地となる。(南佐久郡誌)
(基幹集落センターにある看板資料より)


本丸奥の祠

本丸奥の堀切と土橋


出丸


 



2003年06月29日

所在地 南牧村大字海尻下殿岡
城の種類 山城
城の構造
山の尾根の末端で大月川の深い谷を選んで構築。本丸、二の丸、三の丸があり、西側の背面は大掘切で守られている。城の南側は日向前、北側を日陰窪と呼んでいる。
海尻城の伝説歴史
前山城主伴野氏の幕下井出長門守の築いたものという。村上氏の臣薬師寺右近らがこの城を守っていたが、天文9(1540)年正月16日に武田の将板垣信方の知略をもってこの城を陥れ、本城を小山田備中守昌行に守らせた(一説には勇略あり守備の術に優れていた昌行の父昌辰とも云われた)。二の丸は日向大和守昌時に、三の丸は長坂左衛国清が守った。けれども同年12月海尻の地士(じざむらい)等の一揆が村上氏の意に通じ声援を得てこの城を囲み攻めた。村上氏の将額岸寺和泉光氏等が二の丸まで陥れたが、本城は固く守り降らず既に12月晦日甲州より武田の将軍の到着により村上勢は敗退した。世に言う海尻城の合戦である。(千曲真砂)
この海尻城の戦は戦国時代でも極めて重要な戦いの一つで、武田信虎はこの勝利によって得た海尻城を前進基地として5月には佐久に攻め入り、36城をおとす。8月に海ノ口に伝馬を置く。このころ平沢が小倉の地より現在地に移り伝馬役をする。
海尻城の伝承
八ヶ岳の東麓の突出した尾根の先端に築かれた山城で北八ヶ岳から流れる大月川と千曲川を眼下にし、南は西から流れる新田川に沿った釜の前(溝の前か)という腰までつかる湿地帯で、更に南には湯川、高石川が千曲川に流入している。
城は山頂(愛宕山)が本丸で、東に40メートル下現在の海尻集落の中心部がある殿岡地区が二の丸で、日陰窪医王院から諏訪神社が三の丸、水の手は医王院と諏訪神社境内にあり、水道が引かれる前は利用されていた。
江戸末期文政、嘉永、安政の時代二の丸と思われている地点より、城の創築の際地固めのために六方へ埋めるといわれる真言秘密の丸い石が出たり、城の鬼門に埋めるという北方を守る多聞天像、東方を守る持国天像(何れも金銅で高さ10、5センチ)、が出土している。戦時に思いをはせると本丸に領主のいる本部があり、武者の寝起きする居住施設等の構築物があって、戦うときに足手まといになる家族がどうしていたかは不明で、秘密の地下壕に避難していたかもしれない。この穴を調べると奥まった場所は、二つに分かれ行き止まりになっており、右側には一人が腰掛けられるように段差になっていた。現在は国道に分割されて面影はない。
武田軍の進入路
甲斐国(山梨県)から信濃国(長野県)に入るには諏訪口と佐久口のニ道があり、武田軍の佐久攻略は千曲筋に沿って行われた。武田晴信は甲府躑躅ヶ崎の甲府市古府中武田館を出、千塚(湯村付近)から穂坂路を経て若神子に達した。それより長沢、平沢を過ぎて大門峠(平沢峠)を越え、野辺山原を通って海ノ口に下り海尻、宮の上(現小海高校付近)臼田を経て前山に達する道筋(高白斎紀)
武田軍の烽火台
千曲川の東に位置する海ノ口城西方2キロメートルの山には大遠火という地名が残っており、尾根を登ると標高1303メートル(二等三角点)あたり遠見に達する。(海尻城と真東)ここは遠望がきき烽火台では最適な場所と思われる。
@山梨県高根町玄田山(源田山)大門ダム上の独立山
A平沢峠付近の山(風の三郎)南牧
B海ノ口城西山 南牧
C花岡烽火台(佐久町花岡)
D虚空蔵山烽火台(佐久市岸野地区竹田)
古代の烽火の距離は11キロメートルから15キロメートル位になっている。
地名の由来
時平安時代仁和4(888)年5月8日突然八ヶ岳(みかぶり)が水蒸気爆発を起こして崩れ、天狗岳で崩壊した泥流は大月川の谷に流れ出し、佐久の村々を押し流した。(日本紀略)
そのとき海の口と海尻の間に湖ができた。寛弘8(1011)年8月3日下の深山が決壊し大峡谷をつくり、その湖が干潟となって平地となる。(南佐久郡誌)
(基幹集落センターにある看板資料より)


医王院

海尻城へは医王院の境内から行くことができます。医王院は国道141号線を走っていると信号機に「海尻城跡」と書いてある交差点があるのですぐに分かると思います。

この階段を登って行きます


途中にあった石垣跡?


頂上からの景色

 
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