←前のページ トップページ↑ 次のページ→

愛知県豊川市

牛久保城

2005年05月05日

牛久保城付近の古図

この地にあった牛久保城は、享禄2(1529)年一色城主牧野成勝が、今橋城主(のちの吉田城主)の信成の命を受けて築城したといわれています。
扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く下郷の地を一望でき、北には二重の堀をめぐらせた城でした。
城を取り囲むように、武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていました。
城に向って真っすぐに入る道はなく、すべての道が曲尺手(かねんて)になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようです。
のちに、牛久保は天領となり元禄13(1700)年廃城になりました。いまは、昔の面影はなく、JR牛久保駅周辺にある「城跡」「大手」「城下」等の地名がわずかに昔を偲ばせています。
(看板資料より)

最初に訪れた場所は、牛久保駅の近くにある神社でした。「城跡」という交差点のすぐ横だったのでここに間違いないと思ったのですが違っていました。近くでご老人に牛久保城の場所を聞いたところ、渡辺産婦人科の横にあるということでしたので行ったみました。すると渡辺産婦人科と線路の間のところに石碑等があり説明文が書かれた看板もありました。先に寄った神社周辺も城跡の一部だったのですね。

天正3(1575)年5月8日、奥平貞昌の守る長篠城が武田勝頼に包囲された後、織田信長は5月13日に岐阜を出発して14日には岡崎城に到着。
一方、15日朝には長篠城を脱出した鳥居強右衛門がその日のうちに岡崎城に到着し長篠城の危機を信長・家康に訴えました。その後信長は16日にこの牛久保城に入り、17日に野田城を経て18日に設楽原に陣を張った。
また別の資料では、鳥居強右衛門は岡崎ではなくて浜松に向う途中に徳川家康に会い、その後牛久保城に来ていた織田信長に会ったと記されています。
今では当時の様子はほとんど分かりませんが、当時は規模の大きな城だったのかもしれませんね。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→