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長野県飯綱町

矢筒城

2016年04月30日

矢筒城としては文献・史料に記されていないが、永正10(1513)年長尾為景の福王寺彦八郎宛ての書状の中に「嶋津貞忠との同心あるべからざること、何より其の要害の用心油断あるべからざること」とある。この福王寺要害こそ、矢筒城の初期の姿であったと思われる。長尾為景が信濃国人層をその影響下に組織しようとしつつあった永正年間、島津貞忠の圧力を受けながらも福王寺氏がこの要害を確保していたものと思われる。
その後、永禄-天正年間(1558-92)、この付近の夏川・福王寺・堀廻などの地は島津泰忠の本領とされており、矢筒城は島津氏の居城であったという伝承も残っているが、他方、天正年間における福王寺氏の存在も確認されており、この間の状況は不明である。
天正10年に入ると、木曾義昌の反武田氏の挙兵を機に織田勢が信濃に侵入したため、当時川中島四郡を支配して海津・長沼両城にあった武田方は上杉景勝に援軍を要請した。その後上杉方の援軍は牟礼の矢筒城で合流して上条宣順の指揮のもとに武田方の長沼城に入ったのである。このときの文献によると当時矢筒城は福王寺氏らによって守備されていたことがわかる。
(日本城郭体系より)


本丸

中世の豪族島津権六郎矢筒城跡
矢筒山(標高566.7メートル)は単に城山ともいわれている。文献中には黒川城または牟礼城などの名が登場する。昭和54年矢筒城館跡の緊急発掘で、山の東南斜面直下、内堀と外堀(現舗装道路)に囲まれた畑地内に中世の館跡(現飯綱病院)が確認された。そこでこれまで普通の山城と考えられていたが、山城と館が合体した平山城であることが分かった。
昭和61年第2次矢筒城緊急発掘の結果、内堀の深さは約4メートルもあるV字型空掘であったことも確認された。山頂には本丸、二の丸があり、北側は急峻で八蛇川の谷に落ち込み、南斜面は五条の帯曲輪でめぐらされ、縦堀、馬場等も備わり、まさに要害堅固な平山城というべきである。
大手口は東方からの登山道で、他に北と西にも小登山道がある。言い伝えによると永正の頃の城主は島津権六郎といわれ、その所領は現在の牟礼はもちろん、三水村普光寺倉井にまで及んだ時代があったようである。
昭和43年本丸跡中央に平和のシンボルとして平和観音が建立された。ここからは牟礼盆地が一望でき、北に城下町時代の地名である字裏町、南に字表町等が眼下に展開している。ことに表町地区には近年、近代工業が進出し、再び新しい町が形成されつつある。
(看板資料より)

帯郭

 



2007年05月20日

中世の豪族島津権六郎矢筒城跡
矢筒山(標高566.7メートル)は単に城山ともいわれている。文献中には黒川城または牟礼城などの名が登場する。昭和54年矢筒城館跡の緊急発掘で、山の東南斜面直下、内堀と外堀(現舗装道路)に囲まれた畑地内に中世の館跡(現飯綱病院)が確認された。そこでこれまで普通の山城と考えられていたが、山城と館が合体した平山城であることが分かった。
昭和61年第2次矢筒城緊急発掘の結果、内堀の深さは約4メートルもあるV字型空掘であったことも確認された。山頂には本丸、二の丸があり、北側は急峻で八蛇川の谷に落ち込み、南斜面は五条の帯曲輪でめぐらされ、縦堀、馬場等も備わり、まさに要害堅固な平山城というべきである。
大手口は東方からの登山道で、他に北と西にも小登山道がある。言い伝えによると永正の頃の城主は島津権六郎といわれ、その所領は現在の牟礼はもちろん、三水村普光寺倉井にまで及んだ時代があったようである。
昭和43年本丸跡中央に平和のシンボルとして平和観音が建立された。ここからは牟礼盆地が一望でき、北に城下町時代の地名である字裏町、南に字表町等が眼下に展開している。ことに表町地区には近年、近代工業が進出し、再び新しい町が形成されつつある。
(看板資料より)

矢筒城は牟礼神社のすぐ近くにあるとのことで牟礼神社に向いました。牟礼神社には城跡の形跡がなく、よく分からなかったので近所の人に矢筒城の場所について聞いてみました。するとちょうどそこから見える山でした。現場への行きかたを丁寧に教えてくれました。一度麓に下りて反対側から登っていくような感じでした。現場までの案内板があったので迷わずに行くことができました。車を置いて歩き始めてすぐのところで案内板を見つけました。そこから少し登っていくと公園のようなところに出ました。そこが本丸のようでした。中央が少し高くなっていて観音様がありました。花がきれいな公園でした。

 
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