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長野県上田市

依田城

2010年01月
31日

宗龍寺と依田城

宗龍寺の沿革
当寺は釈迦年尼如来を本尊として初め中峯山東向寺と称し、文安年間五百十余年前の創建ですが火災に逢い全焼、慶長五年に中山の地に再興されて中峯山宗龍寺と称す。
享保七年再災の為此の曲沢地籍に移転、涌泉山宗龍寺と称す。文久三年に再度び火災に逢い山門と土藏を残して焼失し、庫裡は明治以後の建築、鐘楼堂は大正十年の建築、本堂は昭和四十九年十一月に完成。
本堂裏山頂は木曽義仲挙兵の依田城址である。
(看板資料より)

依田城山頂

依田城は依田川に面して突き出した金峰山の頂上に築かれている山城である。眼下に依田川をはさんで丸子の町並みが広がり、直下に走る道は、東は大門峠越えに諏訪へ、西も砂原峠から塩田方面へ、そして保福寺峠から筑摩に至るなど、交通の要衝の地に築かれたといえる。
天文22(1553)年、『高白斎記』に依田大和守春賢の名がみえ、武田信玄から中丸子・下丸子など、広範囲にわたって所領安堵を得たことが記されている。なお、丸子地区には依田城と呼称され、木曽義仲挙兵にかかわる城と伝えるものがいくつかみられるが、同城はその山麓の依田氏居館跡と推定される宗龍寺と共に、同氏にかかわる城と考えられている。
金峰山の頂部を削平して築かれている同城本郭は、8.6m×16.5mで、40cmほどの段差をもつ上下2段のやや南東に細長い平坦地で、北縁にわずかながら土塁跡をとどめている。尾根続きである同郭の北西には5つの削平地と、さほど深くはないが6-7条の堀切がめぐらされている。本郭の南東下にも6m×6mほどの削平地と浅い堀切がみられ、所々に土留めと思われる整然とした平積みの石積みも残されている。
(日本城郭大系より)

山頂からの景色

源水井戸

宗龍寺参道の入口に木曾義仲挙兵の地として依田城登山口の案内があったので宗龍寺に入ってきました。一番奥のお墓の裏の方から登っていこうとしたのですが道が分からず断念。朝7時すぎという早い時間でしたが宗龍寺の住職に行きかたを教えてもらいました。それによるとお寺の横にある沢沿いに登っていけば良いとのことでした。1時間くらいはかかるだろうとのことでした。最初はなだらかな道でした。途中井戸があった所で道が分かれていましたが真直ぐに進みました。右回りでちょうど依田城の反対側に回り込んで裏から尾根に出て後は尾根沿いの急な登り道を登って行きました。石垣や石ころが沢山ありました。約30分くらいで山頂に到達できました。更に奥に降って行くこともできそうでしたが途中で引き返してきました。

石垣跡

 
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