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静岡県菊川市

横地城

2010年01月10日

牧之原台地の一志尾根が奥横地へ舌状に延びており、その先端を含め、東西約1.5qの地域が横地城である。別名を金寿(きんす)城といい、おそらく室町時代初期、近隣の勝間田・新野氏の城とほとんど同じ頃築城されたと考えられる。横地城の戦略的な価値や近隣豪族との関係は時代と共に変遷があって、互いに力関係に対応して規模や備えにも変化が生じたのであろう。
横地氏の始祖は源義家の長庶子家永と伝わり、以後、文明8(1476)年まで約400年間、遠江に勢力を振う横地氏累代にとって、この横地郷は本貫の地であった。旧横地村御領所の藤谷神社所蔵の『横地氏系図』によると、源義家は、前九年の役に鎮守府将軍として奥州に派遣された父頼義に従って東国に赴き、遠江国府のあった見付まで軍を進めたが、長雨のため大井川と天竜川との間に挟まれて動けず逗留した。その時、相良の豪族相良光頼の女との間に生まれたのが、のちの横地太郎家永であるという。その出生については異論もあるが、いずれの説も義家の庶子とするのは共通である。
15代元国。横地弥三。永正2(1505)年、遠江国に生まれ、長じて武田信虎・晴信(信玄)に仕えた。藤丸と同一人とする説もある。
16代元次。横地渋谷介。武田信玄に仕えた。
17代義次。横地喜三郎・所左衛門尉。武田信玄・勝頼に仕え、のち徳川家康に召し出されて江戸幕臣となり、子孫は旗本として相承した。
(日本城郭大系より)

井戸跡

横地城は、室町時代国人領主横地氏の山城です。
山城は、長さ約1.5q余と大規模で築造形態の完成度の高い中世城郭として、昭和46年県指定となり歴史的評価の高い史跡となっています。
城は標高100m前後の山頂部を曲輪(くるわ)とし東曲輪(東城)、中曲輪(中城)、西曲輪(西城)の三郡から構成される連郭式山城で東曲輪がその中心にあたります。各曲輪を中心に、尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御をなすと共に、自然地形を利用した要塞となっています。
当城郭は、保存状態が良く当時の構造を知るには良好な史料となっています。
また、城跡周辺は静岡県立御前崎自然公園となっており四季を通じ風光明媚となっています。
【横地氏】
横地氏は、平安時代(11世紀中頃)源義家と相良の土豪相良太郎藤原光頼との娘との間にできた子が横地太郎家長と伝えられています。
家長は、二俣弾正によって義育され以後、横地を本貫地として横地姓を名乗り今川氏に滅ぼされる間約400年間を遠江の古名族として君臨をなす。
なお、菊川の横地が全国の横地姓の発祥の地となっております。
現在、城の西に広がる丘陵から奥横地のムラにかけて横地氏に関わる史跡が多く見られます。
近年の発掘調査によって横地氏の居館跡の殿ヶ谷遺跡、武家屋敷の伊平遺跡などが発見され当時の全貌が少しずつ明らかとなってきています。
(看板資料より)

本丸横の空堀

金寿城(本丸)
戦時に城主、家族、重臣が住み、作戦協議、軍政協議をするところで、標高101.7m、南側は絶壁に近い要害で、なだらかな北側に向って数段の構えを成し、谷に向って数段の段の構築、北西に向う峰は数ヶ所切断、堀切をつけ谷に向っている。東南よりに僅かに残る土塁が往時をしのばせてくれる。
(看板資料より)


中城跡

東城と二の丸の境に木戸をもうけ、その傍東に兵器庫、千飯庫がおかれたところ。
(看板資料より)


二の丸

副将級と他地域から応援に来た武将が詰め、標高94.9m(この頂上に明治35年-1902静岡市麻機知徳院から家永像が来て、小祠をたて、それを機に、横地氏を祭る現在の横地神社がたてられる)南側は五段に形成され、前面に土塁と濠が廻らされ、北側は象の鼻に向って八段、東の谷に向って三ヶ所に段が、構築され、うちニヶ所は十一段から成っている。やしろの裏手からは落城時の焼米が出土した。
(看板資料より)

土塁濠跡

平安時代の中頃、奥州の豪族安部氏が叛き、前9年、後三年の役といわれる長い乱が起ったが、当時陸奥守であった源頼義は、勅命によってこの乱鎮圧のため奥州に向った。その子八幡太郎義家も、父加勢の為に遠江国見付(磐田市)の宿まで兵を進め、折からの長雨に滞在中、当時この辺りに勢力のあった相良太郎藤原光頼の娘との間に出来た子が、義家の力によって横地村に住し、初代の横地太郎家永と伝えられている。
又、今から900年の昔から、横地氏滅亡までの450年の間、遠江きっての古名族として、東海に君臨した横地氏は、当菊川の横地村が本貫の地であると共に、全国の横地姓の発祥の地でもある。
「いにしえの戦いかにと尋ぬれば こたえてさむし松風の音」
(看板資料より)


一騎駆

両岸きりたった絶壁で、大軍を擁しても、通過するためには一騎づつしか渡れないので、この名が起きたのであるが、この一騎がけの両端には必ずねらいうちが出来る様、構えの段が造くられていた。
(看板資料より)


金玉落しの谷

城兵戦闘訓練の場で兵は膝つき谷の底に膝をつき待機、山上より太鼓を合図に金の玉を谷底に落とし兵は一斉に尾根にかけ上がり、又谷に下り、玉をさがしあてた者は山にかけ上がって賞を貰ったと伝えられている。
(看板資料より)

 

 
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