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静岡県掛川市

横須賀城

 
2004年05月01日

横須賀城立体模型

横須賀城の歴史
戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いていました。天正2(1574)年遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちました。天正8(1580)年徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ高天神城を奪還するための拠点として横須賀城を築かせました。康高が初代城主となり、以降、明治維新に廃城となるまで288年20代の城主を数えました。
横須賀城の特徴
横須賀城は小笠山から西に張り出した尾根とそれに続く長い砂嘴(さし)地形を利用して築かれ東西に長い形をしています。築城当時、山城として築かれた本丸・松尾山に近世以降の拡張工事によって、二の丸郭、三の丸郭の平城部分が付け加わり、平城と山城の特徴を兼ね備えていることから平山城といわれています。また普通1か所しかない大手が東西2か所にあることや、玉石積みの石垣も特徴のひとつです。
明治維新の廃城と国史跡指定
明治元(1868)年20代城主西尾忠篤は明治維新の激動のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達の領地となって静岡藩に含まれました。明治2年8月には横須賀城も廃城となりました。明治6年には城内の土地、建物、石垣、立木まで民間に払い下げられて、町並みや田畑が形成され、更に堀も埋め立てられ城としての景観を失いました。そして昭和46年には本丸一帯を宅地化する計画が持ち上がり、この城跡消滅の危機に住民から城跡保存の声が上がり、昭和56年5月8日付けで国史跡に指定されました。以降、土地公有化と遺構復原整備が進められています。
横須賀湊と横須賀城
江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘から深く入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていました。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていました。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていました。小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられます。城前のこの入江は、宝永4(1676)年の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり、横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられます。湊が使えなくなった以降は西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来しました。
(看板資料より)


西の丸建物跡

現在みられる石の下から、挙大の石をたくさん集めて造った柱石の基礎が検出されています。
(看板資料より)


横須賀城三日月池

当時の堀で現在残っているのはこの堀跡だけです。この城の初期にあった内堀の名残といわれています。
(看板資料より)


松尾山と北の丸

松尾山
城郭の一番東にあたり、築城当時はこの付近が本丸ではなかったかといわれています。
北の丸跡
数棟の建物が建っていたところで、武器倉庫跡といわれています。また城主の側室が住んでいた時期もあったことが記録に残っています。
(看板資料より)


土塁跡

土塁とは外敵の進入を防ぐために小高く築かれた土手のことです。当時の絵図を見るとこの土塁の上には白壁の塀があったようです。
本丸跡土杭群
土杭とは、色々な用途のために地面に掘られた穴のことです。この土杭からは、17世紀から18世紀初頭にかけての陶磁器類などが出土しています。
天守台の遺構
横須賀城の天守は建て坪40坪余、4層の建物と記録されています。ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2メートルの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられます。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のため土塁がありました。天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が南側からは尾の部分が出土しました。
(看板資料より)


北の丸建物跡石列遺構

この遺構は石列上に建物の仕切り壁が乗る地覆の石列と考えられますが、建物の基壇の石積みの可能性もあります。当時の絵図を見ると、北の丸には倉庫と考えられる4棟の建物が描かれています。南側の表示遺構は5個の据え石が残っていただけでしたが、北側の遺構と方向が合っていることから同一の建物か、同時期の並列した建物と考えられます。なお、二つの遺構の方位は天守台から出土した建物跡ともほぼぴったり合っています。これらの遺構は建物としての規模が確定できないので、部分的な復原表示としました。
(看板資料より)


たたき製防火水槽

当時は板の蓋があったと考えられ蓋用の窪みがあります。側面にある菱形マークは城主西尾氏の火消し紋です。
(看板資料より)


米倉跡

本丸の裏手にあたり数棟の米倉が建っていたところです。
(看板資料より)


二の丸 御殿池跡南端部分出土地点

平成5年の発掘調査で出土した。五段積みの玉石垣で形造られていて、北端は幼稚園前まで続いています。城の初期の外堀の痕跡と考えられ、江戸初期の二の丸整備により機能を失い、御殿の池となったと考えられています。
(看板資料より)


二の丸跡

二の丸御殿が建っていて普段城主が住んでいたところといわれています。
(看板資料より)

 

 
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