アユタヤの観光編

古都 アユタヤ (世界遺産)
場所:タイ中央部 アユタヤ県  
アユタヤ遺跡群は、チャオプラヤー川とその支流であるパーサック川、ロップリー川に囲まれた中州に集中している。これは、敵からの
防御を考えて中心部の回りに運河を掘ったことによるものである。ワット・プラシーサンペット、ワット・ローカヤスターラームなどの寺院跡、王宮跡が残る。
これらの遺跡を作ったのは1351年 - 1767年に存在したアユタヤ王朝である。この王朝は、ナーラーイ王時代には現在のラオス、カンボジア、ミャンマーの
一部を領有するほどの勢力を持っていた。中心都市であるアユタヤは、流れの穏やかなチャオプラヤー川に位置し、貿易に持ってこいの地形であった。
この貿易に適した地で、王はその独占貿易で莫大な利益を収め、同時に上座部仏教を信仰していた王は、この莫大な利益をもとに
数々の寺院(ワット)を作り出した。 しかし、1767年のビルマ(ミャンマー)のコンバウン王朝による攻撃を受けてアユタヤ王朝は消滅した。
同時にアユタヤ市内の建造物や石像は徹底的に破壊され、
ほとんどの寺院は廃寺となり、王宮も台座を残すのみとなった。世界的にみてアユタヤの建造物の多くが比較的新しい建造物であるにもかかわらず、
そのほとんどが煉瓦のみになっているのは、このためである。



アユタヤ歴史公園
 
 
この寺院に建つお寺は、歴代のアユタヤ王朝の王の内3人の遺骨が修められているが、アユタヤの王が仏と同一視されたのでこの名前がある。
伝説によればこの地には元々、アユタヤ王朝の創設者・ラーマーティボーディー1世(即位・1351 - 69年)によって宮殿が建てられていたとする。
後のトライローカナート(即位・1448 - 88年)の時代になると宮殿が移築され、この地は王専用の仏教儀式の場となったという。
さらに時代は下り、ラーマーティボーディー2世(1491 - 29年)の時代、現存する仏塔のうち東側の2つが建てられ、それぞれラーマーティボーディー2世の父である
トライローカナート王、前述・ラーマーティボーディー2世の兄であるボーロマラーチャーティラート3世の遺骨がそれぞれ納められた。この後、ラーマーティボーディー2世が
崩御すると3つ目の仏塔が建てられ、その遺骨が納められた。
大きな破壊を受けた他の仏塔遺跡と比べ、漆喰などが当時の状態をよく保存しているため、アユタヤ時代の建築がそのまま見ることの出来る貴重な遺跡である。
 
     
 
 
 
プラモンコンボーピットの像は、16世紀、王チャイヤラーチャーティラート(在位1534-1547年)統治時代の1538年のものとされるが]、その坐像に認められる様式より、
15世紀の王ボーロマトライローカナート(在位1448-1488年)の時代に創作されたともいわれる[5]。
この仏像は、かつて西にあった別の寺院に祀られていたが、17世紀、王ナレースワン(在位1590-1605年)の統治時代の1603年、
もしくは王ソンタム(在位1611-1628年)の時代]、あるいはオランダ人の記述に基づくと1637年に現在の場所に移された。
 
           
 
 
 

オランダ人商人、エレミアス・ファン・フリートの記録に依れば、ラーマーティボーディー1世による建立と伝えられるが、『アユタヤ王朝年代記』は、
1374年のパグワ王(ボーロマラーチャー1世)による建立と伝える。この後、寺院が完成したのはラーメースワン王の治世となる。
この後、中央の仏塔はソンタム王の時代に崩れ、プラーサートトーン王によって修復されたが、ラーマ5世(チュラーロンコーン)の時代に再び壊れた。
寺院の建築は、中央にロッブリー様式の大きな仏塔があり、その回りを小さな仏塔が囲み、その回りを回廊が囲んでおり、礼拝堂と仏堂が東西にあったと推測されている。

 
     
 
 
 
ット・ラーチャブーラナは、1424年にアユタヤ王朝の王サームプラヤー(ボーロマラーチャーティラート2世)により創設され、父ナカリンタラーティラート(インタラーチャー1世)の
王位継承による決闘で死に至った2人の兄弟の火葬場所に構築された。
1957年、寺院の地下聖堂からは多数の仏像や金工芸品が略奪された。窃盗犯は後に捕えられたが、宝物はわずかしか戻らなかった。
回収されたいくつかは、今日、近くのチャオ・サーム・プラヤー国立博物館(英語版)に収蔵されている。その後の地下聖堂の発掘では、より多くの貴重な仏像が発見された。
 
     
 
 
 
この複合寺院は、ラーメースワン(在位1369-1370年〈後・1388-1395年〉)により創建され、その後、ボーロマトライローカナート(在位1431-1488年)によって
1434年に再構築されたものと考えられる。また、アユタヤの王室の史記によれば、1369年、ラーメースワンにより父ラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年)の火葬の場に
建立されたことがうかがえる。
1650年にオランダの美術家により描かれた首都アユタヤの油彩画 Iudea (アムステルダム国立美術館所蔵)および
ヨハネス・フィングボーンス(英語版)(1616/17-1670年)の地図(1665年)には、その場所に1基の塔堂(プラーン、prang)と
いくつかの仏塔(チェーディー、chedi)および1基の礼拝堂(ウィハーン、wihan)が認められる。1687年の不詳のフランス人に製作された地図は、
この場所を Grande Pagode (「大仏塔」)と記している。
1685年のギー・タシャール(英語版)(1651?1712年)の詳細な報告により、王ナーラーイ王(在位1656-1688年)統治時代であった
1665年から1685年のうちに寺院は大幅に拡張されたと考えられる。この時代に、中央の塔堂には小形の塔堂が4方向すべてに追加され、
それにより十字形を構成するようになった。同時に中央基壇を囲む回廊 (Phra Rabieng) が構築された。
1741年(-1742年)には、王ボーロマコート(在位1733-1758年)のもとでさらに大きな改修がなされた。
「プララームも等しく荒廃していたため王はそれを思いやり、完全に再建ことを宣言した。これは完成するまでに1年以上かかった。
その後、王は3か所の主要寺院すべてにおいて落成の式典をそれぞれ開き、大勢の僧侶に十分な供物を捧げて、各寺院で3日間におよぶ祝宴を催した」。
王ボーロマコートの拡張は、中央塔堂の周りの第2基壇、東西にある大礼拝堂、北側と南側の一連の仏塔であったと考えられる。
寺院の前にノーンソーン (Nong Son、タイ語: ???? ???) と呼ばれる池が、おそらく都が創設される以前よりあった。王宮、ワット・マハータート、ワット・ラーチャブーラナ、
それにワット・プララームを構築するため、その池沼の土により地盤を整えた。その後、現在のハスの花の美しい池であるブン・プララーム がここに配置された。

 
     
 
 
 
ワット・ローカヤスター (Wat Lokaya Suttha) ともいわれ、日本では「ワット・ロカヤスタ(ロカヤスタ寺院」などの表記が多い。
建設は後期アユタヤ王朝中期で、67.5メートル四方の基壇の跡が残り、当時は周壁内に本堂のほか多くの仏教施設があった。
アユタヤ王朝陥落時(1767年)に大部分がビルマ軍の破壊に遭い、現在は Phra Buddha Sai Yat という涅槃仏が残る。
涅槃仏は北方を頭に西を向いて寝ており、全長は37メートル(29m)、高さは8メートル(5m)。その構築は、煉瓦で形を積み上げた後に漆喰で固めたものである。
1956年、タイ芸術局により復元された。
 
     
 
 
アユタヤ歴史公園以外
 
 
タイ中部の古都アユタヤにある仏教寺院。王宮跡がある川中島の南西、チャオプラヤー川を挟んだ対岸に位置する。
1630年、アユタヤ朝第27代王プラサートトーンが母のために王室寺院として建立。クメール様式の仏塔が立ち並ぶ。
ビルマ軍との戦いで破壊されたが、1987年に改修された。
 
     
 
 
 
寺院は、アユタヤ王朝初期の1387年、王ラーメースワンにより築かれた。1569年、アユタヤを奪取したタウングー王朝の王バインナウンの勝利を記念し、
ワット・プーカオトーンの仏教寺院の隣にモン-ビルマ様式の大きな仏塔(チェーディー)が構築され、1587年、アユタヤ独立を回復したナレースワンを記念してタイ様式に改修された。
次の2世紀にかけてその仏塔は荒廃していった。王ボーロマコート(在位1733-1758年)の統治時代の修復において、1754年、入り組んだ角のある
正方形に設計されたタイ様式の新しい仏塔が、その遺構の基部の上に建設された。隣接するラーメースワンの創建による寺院は未だ使用されている。
 
     
 
 
タイ中部の古都アユタヤにある仏教寺院。島の北側を流れるムアン運河を挟んだ対岸に位置する。13世紀に建立。ビルマ軍との戦いで破壊されずに残った寺院の一つ。
ラーマ3世の時代に修復。アユタヤ最大級の本堂に、王の正装をまとった高さ5メートルの黄金の仏像が安置されている。
 
           
 
 

寺院は、1351年にアユタヤ王朝を創設した王ウートーン(ラーマーティボーディー1世)により建立された。
この寺院は当初、ワット・パーケオ (Wat Pa Kaeo) と名付けられた。また、一般に寺院は、ワット・ヤイ (Wat Yai) とも呼ばれていた。
その後、1587年にアユタヤの独立を回復したナレースワンが、勝利を記念して仏塔(チェーディー)を奉納した。その仏塔の1基は、
プラ・チェーディー・チャイ・モンコン(Phra Chedi Chai Mongkon、「吉祥なる勝利の仏塔」の意)と呼ばれた。現在の寺院の名称はそれに由来する。

 
     
 
 
寺院のうち最も高い建物である大きな礼拝堂 (wihan) には、1334年からの高さ19メートルとなる巨大な金色の仏坐像が納められている。この崇高な仏像は、
タイ人からは「ルワンポートー」(Luang Pho Tho)、中国系タイ人には「サムパオコーン」(Sam Pao Kong)と呼ばれる。この仏像は船乗りの守護仏とみなされている。
また、伝承によると1767年、ビルマによるアユタヤの破滅の前に「聖なる目から臍まで涙が流れた」という。
この像は歴史の上で数回復元されている。王モンクット(ラーマ4世)は、1854年に修復されたその像を「プラ・プッダ・トライラタナ・ナーヨック」
(Phra Puttha Thrai Ratana Nayok) と名付けた。「トライラタナ」は「三宝(仏・法・僧)」(サンスクリット)の意である[1]。仏像は、煉瓦の上に漆喰が施されたものであり、
1901年には、火災により社殿とともに損傷したが、ラーマ5世(在位1868-1910年)の時代のうちに修復された。
 
     
 
 
 

現、チャクリー王朝初代王ラーマ1世の父によって建立され、ラーマ1世の王室寺院とした。本堂には、150年ほど前に書かれた仏陀の生涯の壁画が残っている。
礼拝堂には、ナレースワン王の一生が描かれた洋風壁画もある。

 
     
 
 
その他
 
アユタヤ王朝の歴代国王の宮殿跡。
1351年に王宮が建てられ、そのあとも歴代王の手によって増築された。しかし、1767年のビルマによる侵攻のため徹底的に破壊された。
 
 
 
 
1548年にビルマ王タビンシュエチがアユタヤへ侵攻した際に、王妃スリーヨタイは、夫のチャクラパッド王とともに戦闘に参加し
夫の危機を救おうとして、ビルマ兵に殺害された。王は、戦後、王妃の勇気をたたえるために建立した。
 
 
 
バンパイン宮殿(バーンパイン宮殿)はバンコクの北60km、アユタヤ
の手前18kmの場所にある、17世紀アユタヤ王朝のプラサート・トーン
王によって建造された夏の避暑用離宮です。
1767年にビルマ(現ミャンマー)の軍隊に破壊されましたが現王朝の
ラマ4世と5世が再建、現在でも王室の住居及びレセプション会場とし
て利用され、一般公開もされています。
 
 
 
 
14世紀中ごろから18世紀頃までアユタヤにあった日本人町。15世紀後半から16世紀初頭までアユタヤ王朝下、軍事力と貿易による利潤を背景に政治的に力を持つようになった。
当時のアユタヤ中心地をチャオプラヤー川沿いに南に下った東岸にあり、西岸のポルトガル人街とは相対の位置にあった。
南北約570メートル、230メートルの敷地に最盛期で1000〜1500人の日本人(タイ族などの奴隷として労働した者を除く)が住んでいたと考えられている。
なお『暹羅国風土軍記』の資料では寛永期ごろのアユタヤ日本人町の人口を8000人と見積もっている。アユタヤ日本人町の住民は、
傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の奴隷などで構成されていた。