薔薇に恋をした男



 あるところに、とても美しい薔薇が咲いていました。
すらっと伸びた細い茎の先端に、零れおちそうなほどの、
大きな花を咲かせ、扇情的なまでの艶やかさです。
真紅の花びらは、シルクのような光沢で、
光を浴びると玉虫のように七色に輝きます。

薔薇を一目見るために、山を越え海を越えたくさんの人がやってきました。
そして一目見た瞬間に、胸を打たれ心を奪われ、
薔薇のことしか考えられなくなるのでした。

その薔薇の魅力にとりつかれた男が、片時も薔薇の側を離れないで暮らすようになって、
一年ほどたったある夜、月夜の中で夜風に揺れながら薔薇は言いました。
「ねえ、どうしておまえはいつもいつも私の側にいるのですか?」
薔薇に初めて話しかけられた男は感激のあまり興奮して言いました。
「それはもちろん、あなたの美しさを愛しているから、
片時も離れたくないのです。」
「それならば、私の体に触れ、その顔を近付け花びらに顔を埋めて下さいな」
「滅相もありません。私のようなものにそんなことを許されてはなりません」
男は薔薇を抱きしめてみたくて仕方がありませんでしたが、
グッと堪えてそう言いました。
「わかりました。」
薔薇は一言最後にそういい捨てると、花びらを閉じてしまいました。
男は途方に暮れましたが、これで良かったのだと自分を慰めました。

それというのも、その薔薇に触れることは死を意味していたからです。
薔薇の細い茎には長く強い棘が連なっていて、
もし花びらに触れようとしたなら、男の体はその棘に貫かれ、
心臓からは血が溢れだし命を絶つことになるでしょう。
男は後悔と安堵が綯交ぜになった心で、ただじっと薔薇を見つめていました。

薔薇は声を出さずに泣きました。
月明かりだけがそっと包み込みます。
「たくさんの男が私に近付いては消えて行った。
誰一人として私を抱いてくれたものはいない。
なんのために私は美しい花を咲かせているのだろう?
そしてなんのためにこの憎らしい棘があるのだろう?」
もう何万回も呪うように呟いた科白を今日も繰り返します。
もちろん、答えてくれるものなどいません。
月明かりは変わらない薔薇を気の毒に思いながらもどうすることも出来ず、
雲の中に隠れて行ってしまいました。辺りは闇を一層濃くしました。
それでも、男だけがただじっと薔薇を見つめていました。

その薔薇の魅力にとりつかれた男が、
片時も目を逸らさず薔薇を見つめ続けるようになって、
三年ほどたったある日、朝日の中で霧雨に濡れながら薔薇は言いました。
「ねえ、どうしておまえはいつもいつも私を見ているのですか?
家族だって友達だっておありでしょう?そろそろ帰ったらどうなのです。」
男は薔薇の優しい気遣いに胸を熱くして言いました。
「あなたの美しさを愛しているから、見つめない訳にはいかないのです。
それに私には家族も友達もいません。何もお気遣いなさらないで下さい。」
「そうですか。」
そう言うと薔薇は太陽に体を向け花びらを広げて行くのでした。
朝日に照らされ朝露に濡れた薔薇は、神々しいほどの美しさです。
花びらは蝶の羽根のように揺れ、今にも空へ飛ん行きそうなほどでした。
男は息をするのも、瞬きをするのも忘れて、薔薇に見とれていました。

男は声に出して泣きました。
陽の光が穏やかに包み込みます。
この薔薇はなぜこれほどまでに美しいのだろう?
そして、なぜ私はこんなにまで薔薇に惹きつけられるのだろう?
もう何万回も祈るように呟いた科白を今日も繰り返します。
もちろん、答えてくれるものなどいません。
太陽は変わらない男を哀れに思いながらどうすることも出来ず、
空高く少し移動するだけでした。少しでも男が温かいようにと。
そして、薔薇は更に大きく花びらを広げるのでした。

それから、また月日は流れ、男は年を取りました。
けれど、薔薇の美しさは一向に変わる様子はありません。
そんなある日、薔薇はある決心をしました。
もう、ただ咲いているだけの人生には疲れた。
美しいと崇められるのではなく、愛しいと思う男を幸せにしたい。
そのためには・・
薔薇は男に言いました。
「あなたは私のことを愛しておいでですか?」
「もちろん、この上なく愛しております。」
「ならば私の願いを聞いてくれますか?」
「はい、何でも言うとおりにしましょう。」
「風の噂で聞いたのですが、この森のもっと奥深いところに、
どんなものでも溶かしてしまう、泉の水があると聞きました。
その水を持ち帰って欲しいのです。」
「はい、わかりました。今からすぐに出発しましょう。」
そう言って男はいそいそと旅に出ました。
茂みの中を歩くたびに足は重くなり、奥深く分け入るほど光は薄くなって行きました。
男は途方に暮れていました。
何もかもを溶かしてしまう水をどうやって持ち帰ればいいのだろう?
そもそも何のために何もかもを溶かしてしまう水が必要なのだろう?
男は逡巡する思いを断ち切るようにただひたすら薔薇のために歩き続けました。
そして三日三晩歩き続けた夜明け、一つの小さな泉を見つけました。
見たところなんの変哲もない、ただの泉です。
周りには草花が咲いていますし、とても何もかもを溶かす威力を
持っているようには見えません。
きっと、この泉ではないのだろう。
そう思った男は泉の近くに行き確かめてみようと葉っぱを一枚落としてみました。
葉っぱはひらひらと舞い落ち、水の上でくるくる回りました。
「やはり、この泉ではないのだな。」
そう呟いた男は、喉の乾きを潤そうと泉の水を両手ですくい飲み干しました。
すると、男は突然目の前が真っ白になり、倒れてしまいました。

目が覚めた時、男はタイムスリップでもしたかのように、辺りを見渡しました。
「僕はなぜこんなところにいるのだろう?」
無理もありません。男はここ数年の記憶をすっかり失くしていたのです。
薔薇を追い求めこの森にやって来たことも、
薔薇に恋し片時も側を離れずに過ごしていたことも、
もちろん、薔薇に頼まれて泉を探していたことも。
男が飲んだものは、記憶を失くしてしまう泉の水だったのです。

その頃、薔薇は一人風に吹かれながら男のことを思っていました。
長い月日、男と二人きりで過ごしていた薔薇は、
いつしか、いつも自分を見守り続けてくれる男のことを心底愛すようになっていました。
薔薇は男の役に立ちたいと思いました。
人生を棒にふって欲しくはありませんでした。
自分のことを忘れるのが一番だと結論を出したのです。
男にお似合いの心の優しい娘はたくさんいるような気がしました。
何処かの街で結婚し子供を生み、幸せな人生をおくるのが一番だと思いました。
男は薔薇を見ているだけで幸せでしたが、薔薇にはその気持ちがわかりませんでした。
薔薇は、触れることも抱きしめあうことも出来ず、
ただ見つめられて過ごすことに、悲しみを覚えるようになっていたのです。

男は、自分が誰なのか、何処へ行けばいいのかさっぱりわからないまま、
何かに突き動かされるように森を歩き続けました。
私にはとても大切なものがあるはずだ・・
そんな漠然とした思いが男を奮い立たせました。
そして三日三晩歩き続けた夕暮れ時、男は薔薇に出会いました。
紅に焼けた空よりも赤く、薔薇は燃えるように咲いていました。
懐かしいような愛くるしいような感情が体中を駆け巡り、
瞳からは涙が溢れ出しました。
そして、男は薔薇に言いました。
「あなたを抱きしめていいですか?その花びらに触らせて下さい。」
薔薇は戸惑いを隠せず、大声で怒鳴りました。
「早く立ち去りなさい。あなたは何もわかっていない。」
その時、辺りが一瞬暗くなり、男は迷いなく薔薇を抱きしめました。
夕闇の空からは優しい月明かりが忍び込んで来ます。
男の体には強く鋭い薔薇の棘が突き刺さり、心臓からは血が溢れ出しました。
「やっと探していたものを見つけたような気がします。」
そう言って男は微笑みました。

薔薇と男の体は、沈み行く太陽の後を追うように、
深く赤く染まって行くのでした。