HANA



 男の子が一人、排気ガスと人とゴミで汚れた街を歩いていると、混沌とした雑音にまぎれて、高く透き通る声が聞こえて来ました。
 「ねえ、こっちを見て!」
男の子はびっくりして周りを見渡しました。でも、近くには男の子に声をかけそうな人などいません。
 「ここよ、こっちよ。」
ハープのように美しく、風のように頼りなげな声が、今度ははっきり聞こえました。
 (とうとうここまで来たか・・)と男の子は思いました。最近の受験勉強と寝不足のせいで、幻聴が聞こえているのだと確信したのです。今までに、肝試しでお化けなのか幻覚なのかわからない人の形の影を見たことはありましたが、幻聴を聞くのは初めてでした。テレビや雑誌で頭のおかしい人の情報は溢れるほど耳にしていましたが、まさか自分がなるとは思ってもみませんでした。
 (やめてくれ!)男の子は心の中で呟いて、その場を早足で通りすぎようとしました。今起きたことはなかったことにしようと思いました。男の子は声に命令されて殺人を犯す気なんてまったくありませんでしたから。それなのに、三歩進んだところで足が止まってしまいました。地面と靴の底がアロンアルファーでくっ付いてしまったみたいに、少しも動かないのです。
 男の子はうなだれてしまいました。その時、足元のすぐ近くに生えている小さな花と目が合いました。(こんな所で植物を見るなんて・・。)男の子は驚きました。木以外の植物は花屋に行かなければ見れないと思っていましたから。踏んづけてしまわないでよかったと心から思いました。
 花はまだ蕾ですが、コンクリートのわずかな隙間でしっかりと生きているようでした。でも、そこは道路沿いの上、スカウトマンのたまり場。踏んづけられてしまうのも時間の問題です。この世界は自分のことしか気にしないでいいことになっているのです。道端の花なんて、意識もせずに殺されてしまうでしょう。
 男の子は、その花を助けようと決めました。そう決めてしまうと、その花のことがとても愛しくなりました。
 細い根を傷つけないように気を付けながら、土ごと手ですくい、お母さんがいつも朝テーブルの上に用意しておいてくれるハンカチにそっと載せました。ブックセンターへ教材を買いに行くつもりだったことも、さっき聞いた不思議な声のことも、ついさっきまで足が動かなかったこともすっかり忘れていました。
 その花を死んだ鳥を抱えるくらい大切にいたわりながら両手でそっと抱えて、人ごみの中をゆっくりと歩き始めました。その花のことしか見ていないのに、誰にもぶつかることはありませんでした。
 「僕が守ってあげるから!」
男の子は花に言いました。男の子がそう言うと、花は微笑んでうなずくかのように、花びらを一瞬揺らしました。それが全て花の意図したことだとは、男の子は知る術もありません。


つづく