虹色の鱗



 空を飛んでいたら人魚に出会いました。
私は訊ねます。
「あなたは人魚、どうしてこんな所にいるのですか?」
人魚は答えます。
「私は人魚、どうしてこんな所にいるのでしょう?」
質問に質問で答え返すとは・・
いい女の常套手段です。
仕方なく私は言います。
「あなたは世界初の空を泳ぐ人魚なのでしょう!」
人魚は不敵な微笑みを浮かべて私に近付きます。
そして、キラキラと輝く虹色の鱗をそよそよと揺らし、私に掴まれと言うのです。
逆らえるはずもありません。
彼女は世界初の空を泳ぐ人魚なのですから・・

 私は彼女の可憐な尾ひれにそっと触れました。
鱗は大理石のように冷たく滑らかでした。
彼女の尻尾に掴まった私と、風のように美しい身のこなしの彼女は、
雲を突き抜けどこまでも進んで行きました。
光を浴びて気持ちよさそうに泳ぐ彼女は、水色の空に咲いた一厘の百合のようでした。
途中、勇敢な鷹や頼りなげな渡り鳥に出会いましたが、
鳥達は、古くからの友達にするように、愛しい思い出の中の恋人にするように、
そっと羽を休め羨望の眼差しで、空を泳ぐ人魚を見送るのでした。

 「ちょっと休みましょう。ここからは時折素晴らしい虹が見えるのです。」
人魚はやっぱり虹色の鱗を揺らしながら、雲の上に腰掛けました。
そして折れそうに細い首を傾げて訊ねます。
「ところで・・あなたは人間、どうしてこんなところにいるのですか?」
その声は子供の頃宝物にしていたオカリナの音色のように高く柔らかです。
私は、やっとのことで息を整え答えます。
「私は人間、どうしてこんなところにいるのでしょう?」
先程の台詞をオウム返しするとは・・
モテない男の浅はかな知恵です。
人魚は優しさの中にほんの少しの軽蔑をにじませた瞳で、答えます。
「あら、あなたは世界で最後の空を飛ぶ人間なのでしょう!」
まるで呪文のようなその声に、私の意識は遠のき、頬からは血の気が引いて行きました。
僕は世界で最後の空を飛ぶ人間・・
その台詞を反芻しながら、大地を見下ろします。
色んな色の小さな花びらでごちゃ混ぜになった地面が、雲の隙間でぼやけています。

 そうか・・私も昔、地に足をつけて歩いていたんだ。
いつからだろう? 飛ぶことしか出来なくなってしまったのは・・
そして、いつからだろう?空を飛ぶ人間の友達がいなくなったのは・・

 私には、もう思い出すことが出来ませんでした。
幽体離脱でもしているかのように、自分の実体は曖昧でした。
でもそれは、ずっと昔から変わらないような気もします。

 「どうなさったの?大丈夫よ。
あなたは私のことを世界初の空を泳ぐ人魚と言ってくださいました。
あなたは私にとって初めての世界で最後の空を飛ぶ人間のお友達ですわ!
そうすれば、寂しくはないでしょう?」
憂いをおびた黒髪をかきあげながら、人魚は悪戯好きの少女のように胸を弾ませています。
彼女の真っ白でたわわな胸は遠い記憶の中の母のそれに似ていて、
私は思わず涙ぐんでしまいました。
彼女のしなやかな腕が伸びてきます。
私は誘われるがままに人魚の胸の中に顔をうずめました。
そこは、深い深い海の匂いがしました。
心細く心地のいいぬくもりがありました。

ここは何処なのでしょう?
空の中?
海の中?
胸の中?
それとも・・・

 その時、瞼に柔らかい光と暖かさを感じました。
そっと目を開けると、地上から空高く大きな弧を描いて虹が伸びていました。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、七色の層は曖昧のようではっきりと、
それぞれの色を主張していました。
力強くしなやかに、虹は何処までも伸びて行きます。
私の目からは涙がこぼれました。
先程の郷愁の涙とは違う味わいでした。
この涙がいつの日か虹色に輝くことを願って、私は人魚に微笑みました。

 すると、人魚は私と同じ顔をして同じ微笑を返してくれました。
「私はあなたなのよ。」そう風が呟いてすぐに去って行きました。
彼女を追いかけようと伸ばした手のひらに、一枚の花びらが落ちて来ました。
虹色の鱗でした。