息つぎ        1992年

 「研究室が破壊されちまった」トレンステ・ハイランスクがぶつぶつ言った。「おれのシロプルム=フリンごと消えちまいやがった」
 「それ、どういうこと」リルホート・ラコアが言った。彼女はアリ・オリ・ゴドルヌの宗教哲学の論文を読んでいたのだ。
 「〈異空間〉が食っちまったんだ」
 「キリアが〈異空間〉なんてないって言ってたわ」
 「あいつはただの理論家だよ。典型的なゴドルヌ教信者だ」
 ハイランスクはちらっとラコアの顔を見た。しかし彼女は気にも留めていないふうだ。しばらくの間、ハイランスクはそんな彼女を眺めていた。
 「わたし別に信者じゃないわ」ラコアが言った。
 「ああ、分かってる」
 ハイランスクは不満そうに、携帯用の立体パネルの幻想を見つめていた。もうすぐ午後のティータイムが終わってしまう。彼にはあまり時間がないのだ。

 「やあ、トレン。あまり元気そうじゃないな」そう言いながらアレクサンダー・カイルラップが休憩室に入ってきた。
 「僕に話があるんだって」
 「なにがあった」
 「あの〈異空間〉の実験が成功した」
 「ほう、キリアの驚く顔が見たいな」
 「ああ。だが、〈異空間〉の様子がおかしいんだ。真空エネルギーを場に開放したとたんに、勝手に成長し始めたんだ」        

 ところで、あなたはグルファード・クラファソムの驚くべき推定、〈異空間理論〉をご存じだろうか。〈異空間〉とは、五つの基本的法則とそれに付随する十二の規則、それから〈クラファソムの基本プログラム〉によって形成される、異質な空想上の同次元宇宙である。〈異空間〉は理論上、我々の宇宙空間とは相入れないもので、キリア・ラクエルをはじめ多くの学者によってその存在を否定されている。しかしグルファード・クラファソムに敬意を抱く人々は少なくない。彼らによって、なんども 〈異空間〉実現化の実験が行われてきている。けれども今のところ成功していなかった。
 「まるでプログラムを荒らすコンピューター・ウィルスみたいだ。〈異空間〉のやつ、おれたちの空間を食って成長しやがる」ハイランスクがうめいた。
 「おいおい、おまえだけの宇宙じゃないんだぞ」カイルラップが叫んだ。「どうにかして暴走を食い止めないと、僕たちが食われてしまうじゃないか」
 「それ、本当なの」ラコアが悲鳴をあげた。
 「こりゃあ、みんなで考えたほうがいい」カイルラップが断言した。
 「グルップとカズラフ、キリアも呼ぼう」

 その間も 〈異空間〉は膨張を止めない。冥王星のトレンステ・ハイランスクの研究所を飲み込み、実験地域を破壊しつつあるのだ。  

 「僕は聞いてないぞ」カズラフ・コヤマが文句をつけた。「いずれ実験する時は相談するって言ってたじゃないか」
 「時間がなかったんだ」申し訳なさそうにハイランスクが弁解した。
 「〈異空間〉発生装置の原理が聞きたい」キリア・ラクエルがたずねた。
 「後にしよう」グルファード・クラファソムが言った。「集まった中には〈異空間理論〉を理解していない者もいる。理論の説明のほうが先だ 」
 カズラフとカイルラップがうなずき、ラコアは黙っていた。
 「説明してくれ」カイルラップがうながした。

 さて、 〈異空間理論〉は素人の手に負えるものではない。その間、我々は集まった人々を観察することにしよう。集まっているのは六人。五人は男で、残りのひとりは女性である。
 まず、テーブル中央にある立体パネルの幻想で、〈異空間理論〉を説明しているグルファード・クラファソム。彼は数学者で、エンジニアで、理論物理学者でもある。彼は全太陽系を驚愕と困惑に陥らせた〈異空間理論〉の発見者だ。この奇妙な理論は、大きな心臓と快活な笑い声を持つ彼らしい、ユーモアに満ち満ちたものである。
 次に、氷の入ったグラスをもてあそんでいるのがカズラフ・コヤマ。彼は数学者だが、詩人で、画家で、作曲家でもある。いつも彼は大衆芸術の頂点にいる。内に秘めた天才だとも言われている。
 〈異空間理論〉否定論者の筆頭だったキリア・ラクエルは、気まずそうにもじもじしている。彼がゴドルヌ教の熱心な信者であることは、知らない者はいない。
 二枚のレンズでできた珍しい〈眼鏡〉を耳に掛けたアレクサンダー・カイルラップは、芸術界でも名の知られた物理学者である。楽天的で逆境にも強い彼は、今をときめく〈複雑な細胞プロジェクト〉の積極的な推進者のひとりである。
 ショートカットの美しい栗色の髪を持つリルホート・ラコアは、〈惑星地球研究地域〉の最高責任者だ。彼女の才能と美しさには、ほとんどの男は頭が上がらない。かなり人見知りする性格なので、彼女と知り合いになることは大変光栄なことだ。
 黙ったまま空想に頭をめぐらしているふうな男は、この事件の原因となったトレンステ・ハイランスクだ。彼はクラファソムに並ぶ天才物理学者である。やや自分勝手だが責任感は強い。

 室内には、今はやりの微香性の香風が行き渡っている。ひととおり説明の終えたクラファソムは、パネルの幻想を閉じ、テーブルにコーヒーを命じた。
 「おれは〈レノウの場〉から〈異空間〉実現のヒントを得たんだ」ハイランスクが言った。「発生した〈異空間〉は絶対0度近くで自在に制御できるはずだった。そして、温度が上がれば自然に消滅するはずだった。けれども実際はどうだ。真空エネルギーを開放したら〈異空間〉は膨張しちまったんだ。理論的に不安定な〈異空間〉が、安定どころか、我々の空間を不安定なものにしちまいやがった」
 一同は黙ったまま聞いていた。ハイランスクはラクエルをちらっと見て話を続けた。
 「発生装置は無論シロプルム=フリンだ。プログラムは持ってきたけれど、いかんせんシロプルム=フリンの基本設定がないからどうしていいのか分からない」
 シロプルム=フリンはその使用者によって性格が違う。シロプルムは使用者の脳細胞の能力を拡大するものだ。だから他人のシロプルムを用いる際は翻訳機が必要だし、それがあっても完全に使いこなすには至らない。すなわち個々の基本システムがないことには、プログラムがあってもその内容を再現するのはほとんど不可能に近い。
 「制御室は破壊されたの」ラコアがたずねた。
 「いや、まだだと思う」
 「制御室にあなたのシロプルムの複製がなかったかしら」
 「あったかもしれないな」
 気を利かせたテーブルがコーヒーを出すのを控えている。
 「それがあれば、プログラムの解読に多少は役に立つだろう」クラファソムが言った。「トレン、急いで冥王星に戻るんだ。僕とカイルラップで翻訳機を用意する。キリアはワクチンの方程式を算出してくれ。カズラフとラコアは必要と思われる機材と情報を集めてくれ」
 「やっぱり〈異空間〉発生装置は必要だっけ」カズラフが不思議そうに言った。
 「必要だ。〈異空間〉を退治するワクチン空間は〈異空間〉の中で創らなくちゃだめなんだ。それには制御された〈異空間〉が必要だ」ラクエルが叫んだ。  六人は忙しそうに散り散りになった。          

 しかし、膨張を続ける 〈異空間〉は制御室も飲み込みつつあった。いずれ冥王星はバランスを崩して崩壊するだろう。そして、他の惑星も同様の運命にあるのだ。

 キリア・ラクエルが興奮して研究室に飛び込んできた。
 「すごいぞ。面白いものができた」
 「ワクチンの方程式ならさっき見せてもらったぞ」カイルラップが怒鳴った。
 「〈ラクエルの場〉と名付けよう」ラクエルは息をはずませて言った。
 「〈異空間〉に侵されない方法が分かったんだ」
 「なんだって」クラファソムが椅子から立ち上がった。
 「〈異空間〉がこの宇宙に優位に立った理由はこの宇宙がプラファ的だからだ。だからそのプラファを弱めてやれば、まあそれが〈ラクエルの場〉って言うんだけど、その中では〈異空間〉に侵されることはない」
 「プラファって何だ」カイルラップが目を瞬かせた。  「ラコアが付けた名前なんだが、なんでも彼女が以前飼ってた木星産の猫の種類で‥‥‥」
 「そんなことはどうでもいい。太陽系の全人類と全生物の生命が係わってるんだぞ」カイルラップは発狂寸前になった。
 「それは駄目なんだ」途端にラクエルはしょんぼりして言った。「〈ラクエルの場〉の発生には広い場所は適さない。ここみたいな〈衛生ステーション〉なら小さくていいんだが、それ以外は絶対無理だ。もう一つ、ここはプラファがもともと弱いんだ。だけど、ここ以外となると‥‥‥」
 カイルラップは返事をしなかった。クラファソムは思わず目を伏せてしまった。

 そのころ、急速に広がった 〈異空間〉は、天才物理学者トレンステ・ハイランスクもろとも冥王星を飲み込んだ。太陽系の全てが飲み込まれるのも時間の問題だろう。

 「やぁ、冥王星はもうダメだね」コヤマがつぶやいた。
 「もう崩壊した」カイルラップが答えた。「トレンは帰っていない」
 「僕はトウビーのことを思い出すよ」コヤマが言った。「彼が実験中の事故で死んだのは、あいつが十七歳の時だった。もう四年も前になるなぁ」
 「彼は私達の中でも、特に際立っていたわ」ラコアが静かに言った。     
 「もし彼が生きていたら、ねぇ、こんなことくらい彼にはなんでもなかったんじゃないかしら」
 「確かに彼は我々よりも優れていた」クラファソムが穏やかに言った。
 「しかし、もう過去のことだ。もしも、なんていう時の流れに反する仮定はやめた方がいい」
 「運命論っていうのは反省は無意味って言ってることなのよ」ラコアが言った。
 「忘れようと思っても忘れられないことがあるだろう」コヤマが言った。「わざわざ無理に省みる必要はないよ」
 「ここは安全だ」ラクエルが陽気に言った。「〈ラクエルの場〉がぐるりと取り囲んでいる。あと数分で作動するよ」
 「ここにはいつ来るんだい」クラファソムが言った。
 「あと七時間したら地球の溶けていくのが見れるよ」カイルラップが答えた。
 七時間なんてあっという間だ。

 「さあてまた一仕事だ」ラクエルが伸びをした。
 「とにかくここには太陽系で最も優れた頭脳が五つもあるんだから」ラコアが言った。
 「僕のシロプリムも健在だ。二十四人の、五人だっけ、助手たちも生きている」カイルラップが言った。  
 「多すぎるぐらいだ」コヤマが顔をしかめた。
 「今度の仕事は今までとは較べものにならないほど大きいぞ」クラファソムが快活に言った。  彼らは太陽系を復活させるプロジェクトを開始したのだ。この分ではあと半年で細部の設計図も出来上がり、三年もすればだいたいのところは完成するだろう。
 「人間の文化の歴史は全部この中に入っている」コヤマが得意そうに言って、手にしている携帯パネルの幻想を眺めた。  
 「木星の衛星を全部調べておくのは忘れていたな」クラファソムが言った。  
 「僕が卒園式にスケッチしたのがあるよ」ラクエルが楽しそうに答えた。              

 彼らの仕事は数年で完了するにちがいない。そのときはまた、何も知らない数百億もの人類とその文化が、華々しく復活することであろう。

 

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