もう随分長い間        (1990)               

この作品は、私の記憶にある「僕」の語りをもとにあらすじをスケッチし、「僕」のイメージする世界を加味しつつ、推考していったものである。作中の“神々の闘争”は“闘争”の誤りである。正しくは人間と神人との闘争なので、語り手は完全な間違いを犯していることになる。なお、興味のある方は、スクリャビンの「神聖な詩」を聞いてみるのもよい。ちなみに私が持っているのは、一九七六年のライヴの録音であまり音質はよくないが、演奏はよい。           

Alexzander Scriabin

Symphony No.3 in c mor "Le Divin Poeme"

1. Lento-Luttes [Struggles] (Allegro)

2. Voluptes [Sensual Pleasures] (Lento)

3. Jeu Divin [Divine Play] (Allegro)

Concertgebouw orchestra, Amsterdam

Kiril kondrashin, conductor

 

 時計が午前二時を回った頃、僕は洗濯物の袋を抱えてコインランドリーの部屋を出た。寮の玄関はひっそりと暗闇で、スリッパの冷たい音の響きだけが、闇に潜む不条理の存在を追い払い、打ち消していた。
 睡魔に頭の半分を侵されていた僕は、朝取り忘れていた新聞を取るという、今日最後の任務を辛うじて思い出すと、半ば眠っている身体を奮い起こし、靴箱に向かって 身体を運んだ。それからやっと十回目くらいに、うまく新聞を洗濯物の上にのっけると、エレベ-ターの前までやってきた。そして、ボタンを押すとエレベーターの扉が開き、僕はその中に倒れ込むように向かって行き、扉が閉じるのを待った。  それからたぶん、僕はCのボタンを押したはずだ。そのときは、そのつもりだった。でも、考えてみれば、そのときエレベーターが本当に上に向かっていたのかどうかは、はっきりしない。そう、エレベーターは確かに作動していた。しかし、扉が開いたとき、そこは四階の僕の部屋の前、ではなかった。
 そう、そこは真っ白だった。空白の空間だった。そう、私はどこかに着いたのだ。ここはどこであるべきなのだろう。ここは何かどこかでなくてはならないのだ。

 冷えた静寂が取り囲んでいる。
 視界が何かに遮られているのか、それとも単にただ眼が開いていないのか、僕は自分がどこに立っているのか分からなかった。
 しばらくして耳鳴りの音が小さくなり、しだいに聴覚が甦ってきた。同時に、辺りを支配しているざわめきが、何か秩序を感じさせることに気付いた。音楽が鳴っている。そう思うとそんな気がしてきた。
 しだいに聞き慣れたメロディーが湧き上がってきて、僕には、「神聖な詩」の“神々の闘争”が聞こえていることが分かった。聞きながら、僕はぼんやりと立っていた。
 音楽が最高潮に達すると、もう夜も明けて左右に雨戸を開くその瞬間のように、闘う神々の姿が、懐かしさと眩しさとともに出現した。しかし、その姿は映像のように空虚だった。本当にそこに神がいるようには思えなかった。
 神々は互いに罵りあい、殴り合い、はたまた人間を操って争っていた。
 こわばっていた全身がほぐれていく。濁っていた心が、光を通すようになる。そして、僕は、歩かなくてはならなかったことを思い出した。
 歩きながら、僕は神々の闘う様を見ていた。白い影がうごめきもつれ合い、ときには見えない閃光が炸裂していたりした。その様子は、眼で見ているというよりは、心で見ているという感じだった。
 僕は神々の周りをひたすらに歩いていた。おそらく僕は、神々の争いを真ん中にして、大きな円を描いて歩いていたのだろう。そして、僕がそのことに気付いた瞬間、僕は白いタイルを敷いた小道の上を歩いていたのだった。その道は明らかに円弧 の一部であって、円く閉ざされているようだった。僕は歩きながら、辺りの霧(霧‥‥‥!?)に包まれた(今まで霧なんかあったんだっけ‥‥‥?)風景を眺めていた。  何だか、白い箱の中にいるような気がした。
 霧の先はもう何も見えなかった。僕はちょっと知らんぷりでもしている風に、ただぐるぐると円く歩いた。
 蝋燭を持って白い線の上を歩かされた、キリスト教系の幼稚園の思い出なんかが、ふと、頭に浮かんできて、僕はただひたすら歩いていた。
 そのうちだんだん、同じところを回っているのにも飽きてきた頃、僕は螺旋階段なんかを思いついた。すると、いきなり足を運ぶ一歩一歩が重たくなったのだ。僕は少しよろめきながら、やっぱり、階段を上っていた。
 僕はどんどん上っていった。全然疲れなかった。何故って、僕はあっという間に、もう随分高いところにまで来てしまっていたのだから。  僕は神々のことを思い出して、下の方を眺めた。するとやっぱり、白いガウンを着た神と、白い着物を着た神とが、白い稲妻を操って闘っていた。神々は透明になったり、くっきりと姿を現したりしながら、まるで儀式のように、ただ闘っているだけだった。
 そのもっと下には街が見え、街には人々が賑やかにあふれ、街ごとみんな白かった。
 僕は走っていた。まあるい円を描いて走っていた。下の賑やかで騒がしい街に行ってみたかったけれど、行きたいと思えばすぐ、街が目の前に広がるような、そんな気がしたけれど、僕はそれを止めにした。物語の辻褄は合わせたい、そんな意地があったのかもしれない。  第一、僕は走るのを止められなかった。いきなり立ち止まったりしたら、僕はこの世界から抹殺されてしまう。僕は不安になった。自分の描くまあるい円の半径が、だんだん小さくなっていくような気がした。
 僕は走りながら上を見た。精一杯上体を反らして走った。螺旋の先は見えなかった。でも、間違いなく半径は小さくなっていた。いつか階段の幅が狭くなって、僕は走るのを止めなくてはならなくなる。僕はそれを恐れた。僕は、幼い頃に見た悪夢のことを思い出していた。思えばこんな追い詰められた気分を味わうのも、今が初めてではなかった。その昔にも、こんなことがあったような。僕はそれを必死に思い出そうとした。思い出せ。思い出せ。何か分からない。分からない何かが僕を包み込もうとしている。僕は走った。僕の一歩一歩のすぐ後ろから、階段が崩れ落ちていく。僕は爪先で走り続けた。
 考えてはならないことを考えていることは、自分でも分かっていた。呼吸するのがつらくなった。怖さが僕の走るのを止めさせようとしていた。そして、そのことが僕を恐怖に陥れる。僕はただひたすら恐怖に向かって走るしかなかった。シャツの背中がぐしょぐしょで気持ちが悪い。誰かが僕を笑っていた。いや、笑っていたのは僕自身かもしれない。ときどき足を踏み外しそうになる。いっそのこと踏み外してしまえば。
(飛び降りる‥‥‥!?)
 ああ、そうだ。途端に僕は新たな可能性を見いだした。まっすぐ走ればいい。僕が走れば道はおのずとついてくるのだから。なんでこんなことに今まで気がつかなかったんだ。だいたい、この階段にはいつの間にか手摺さえなくなっているじゃないか。
(手摺?そんなものあったっけ?)
 とにかくまっすぐ走るんだ。あと五回まわったところで、まっすぐに。あと三回。あと一回。いやっ、あと一回は早過ぎる。あと十回だ。あと八、六、四、二、よし、まっすぐ‥‥‥!?
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 そうして僕は、まっすぐ、セメント色の道を駆けていた。なんとなく自分に満足なんかしながら。
 僕はゆっくり、ゆっくりと足運びを緩めて、やがて僕は、近づいてくる街に向かって、歩いていた。姿勢を正して。ゆったりと足を運んで。
 街は寂れていた。人々は僕を知っていて、知らない振りをしていた。僕はやって来るたくさんの人々と擦れ違った。そして、擦れ違う度に、どこかで鈴の音がしていた。
 いろんな人たちと擦れ違った。警察官。消防士。お坊さんに、有名人。馬車に乗った貴族たちと、大正風の書生。ギリシャの重装歩兵、散っているのは桜の花びら、子供たち、背広を着たサラリーマン、予備校生たち、おみくじを結んである木々、お墓参りに来た若い家族、そう、いつの間にか、僕は市場を通 り過ぎてしまっていた。
 そうして、僕は歩いていた。道なんかなかった。僕は誰かに会うために歩いていた。もう周りには誰もいやしなかった。僕は、静かに物音ひとつ立てずに、ただ歩いていた。小さな扉を目指して。僕は扉から眼を離さずにいた。もしも、扉からわずかな隙間ができるようなことがあって、光が、ほんの少しでも漏れるようなことがあったら、それを、絶対に見逃さないって。
 僕は扉に近づく。
 それは、近づこうと思えば、いつでも近づけるのだ。
 それは、開けようと思えば、いつでも開くのだ。  いつか僕は扉を開くだろう。
 けれども、もし、あの人が困った顔をすれば、僕は行き場を失ってしまう。

 

そして、ぼくは扉の前に立っている。もう随分長い間。

 

 

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