1991年1月
国家ハミンの東のはずれに、カノトゥールフという小さな町があります。カノトゥールフの町は、海のそばにあるとても美しい町でした。この美しい町に、大変優れた腕を持つ一人のガラス細工師が住んでいました。
夏が過ぎ、ようやく涼しくなってきた頃、そのガラス細工師が浜辺を散歩していました。澄みわたった海の青さは、細工師にとっていい刺激になったのです。そして、陽も沈み切ろうとしていたそのとき、細工師は青いガラスの箱を見つけました。細工師はそれを拾いあげて、思わず海の色と見比べました。箱の不思議な色合いは、まるで海の色のようだったのです。いいものを拾った、と細工師は嬉しくなりました。そのとき、なにか不思議な衝撃が細工師を襲ったのでした。彼は不意に、ガラスの箱を岩の上に落としてしまったのです。ふぁるたーも るるりくいてす みやうんりっみあすと
うぇるたーも ゆゆいどっぽむ ひずくぃんでっみあすと
……………………………割れたガラスの箱の中から、こんな知らない国の言葉の歌が聞こえてきたのです。音の瓶詰めだったんだ、と細工師は思いました。そしてやがて、ふつりと、ガラスの破片はなにも言わなくなりました。そこで細工師はその瓶の破片をできるだけ全部拾うと、自分の小さな工場に持って帰ったのです。
次の日細工師は、国家ハミンの中で一番大きな港町の、都市ハミンに出掛けました。知り合いの商人の家を訪ねたのです。
細工師は、あの破片をつなぎ合わせて復元した青いガラスの箱を持って行きました。そしてそれを、商人に見せたのです。
「こういうものを見たことないかい」
「ああ、これは音細工じゃあないか」
商人はこれを手に入れたわけを尋ねたので、細工師は浜で拾ったと答えました。
「ああ、それは惜しいことをした。割っていなかったら、高く売れたのに」
「僕はこれと同じものが二つ三つ欲しいんだ」
「馬鹿をいっちゃあいけない。音細工は大変高価なものなんだ。私のようなふつうの商人が扱う品じゃあないんだよ」
細工師はがっかりしました。彼はガラス細工師としては、腕はよかったのですが、貧乏だったのでした。
家に戻った細工師は、知り合いの歌うたいの家を訪ねました。お金で手に入れることができないなら、自分で作るしかないと考えたので した。
細工師が歌うたいにわけを話すと、歌うたいもそれに賛成しました。細工師はその日から工場にこもって、ガラスの箱の研究を始めました。
それから一年たって、ガラスの箱を割ったとき、どうやら歌声のような音が聞こえるようになりました。
それから三年たって、歌声の半分くらいの美しさが、ガラスの破片から聞こえるようになりました。
それから五年たって、歌声の四分の三くらいの美しさが、ガラスの破片から聞こえるようになりました。歌うたいは、もうそろそろいいんじゃないかと思い始めていましたが、細工師は納得しませんでした。
それから八年たって、歌声の五分の四くらいの美しさが、ガラスの破片から聞こえてくるようになったのです。細工師はまだまだ納得が いきませんでしたが、歌うたいはこれ以上つきあいきれないと、どこか遠くに行ってしまいました。
しかしこのくらいのことでは、細工師はあきらめ切れませんでした。彼は カノトゥールフに住む全ての歌うたいにわけを話し、協力を求めました。応じる者は大勢いました。細工師はまだまだ仕事が続けられると思いました。
ところがうまくいかなかったのです。箱はどれもうんともすんとも言わなかったのです。歌声の波長とガラスのなにかが、うまく噛み合 わないようでした。それでも細工師は二年の間がんばりました。
そしてある日、細工師は カノトゥールフの町から消えてしまいました。工場からは、未完成のガラスの箱が全て消え失せていたのでした。
*
十一月王国チェレルータの都に向かう船が、港町メフを出発しました。船にはいろいろな国々のいろいろな人々が乗り込んでいました。 出港して二日たったある朝、船は嵐に巻き込まれたのです。もう誰 もが、もはやこれまでだと思いました。船はあまり大きくなかったし、この辺りの嵐は尋常なものではなかったのです。風はますます強くなり、船もますます大きく揺れ、いまにも波に呑まれそうになりました。
そしてそのときに、奇跡が起こったのです。
「チャリン」
それはガラスの割れる音でした。この音を合図に、歌声がどこからともなく聞こえてきたのでした。それは、とても美しい歌声でした。その穏やかな、なぐさめるような歌声は、嵐の狂暴さにわずかに勝っていたのです。嵐は小さくなり始めました。
はじめ、人々はこの歌声と嵐との闘いを、ただじっと見ているだけでした。その間にも、歌声は嵐を押しやり始めました。そして、それ に勇気付けられた人々は、ガラスの歌声に加わりました。美しく澄んだガラスの歌声は、いつの間にか聞こえなくなっていましたが、人々 の元気で力強い歌声は嵐を圧倒しました。やがて、嵐は過ぎ去ってい ったのです。
一人の若者が涙を浮かべて、割れたガラスの一片を拾いあげました。若者はゆっくりとある老人の方に歩みより、言いました。
「老いた御方よ。あなたはこの音細工をどうなさったのですか」
老人は何も聞いていないかのように黙っていました。
「それで分かりました。これを作ったのはあなたです。なんということだ。僕はこれほど美しい音細工を見たことも聞いたこともなかった。失礼ですが、あなたはチェレルータの御仁ではない。そうでしょう。こんなすばらしい細工師が、外国にいたなんて。僕の国にはこんなものしかないんですよ」
若者は青いガラスの箱を取り出しました。いつか浜辺で拾ったそれ でした。
「チャリン」
青い破片のうたう歌はどこかで聞いた歌。そうです。浜辺のあのときの歌でした。
ふぁるたーも るるりくいてす みやうんりっみあすと
うぇるたーも ゆゆいどっぽむ ひずくぃんでっみあすと
……………………………それは、それほど美しい歌声ではなかったのです。老人の心の中で何十年もの間に理想化されていた浜辺の歌声は、一瞬のうちに壊れてしまいました。今聞いているガラスの歌声は、歌うたいも、ガラス細 工師も、浜辺のものと同じであることには間違いなかったのでした。
老人は静かに涙を流しました。老人は、死んだ友達の歌うたいのことを考えていました。それから、さっき割った五分の四の美しさの箱 のことを考えていました。そして、そっとつぶやいたのです。
「あいつが私とこの船をすくったんだ」海はすっかり静まりかえっています。船は港に近づいていきます。
老人はずっと海を眺めていました。
そう、いつまでも、眺めていたのです。