蚕糸の森(未完)

 東高円寺近くの裏通りを歩いていると、吸い込まれて出られなくなる事がある。頭のはっきりしているときは尚更で、行きたいと思う方向には道が付いていないし、変な風に曲がりくねっていて、戸惑う事も少なくない。
  さっきから歩いても歩いても、似たような家ばかり並んでいて、気になって仕方がない。造りの細かい所はそれぞれ違っているけれど、壁の色や窓の付き方や玄関の具合いが皆同じである。揃って俯いていて、時々首を傾げて澄ましている。ひと昔前だったら、ちょっと素敵な家並だったのかも知れない。なんだかとても上品そうな顔付きに見える 。
  ちょうど垣根の黒枝がはみ出して翳っているところに、小さな腰掛けが据えてあった。随分前から放ってある様で、座る部分が少し朽ちているけれど、脚はしっかりしている。その証拠に、向こうから来るときに猫が跳び降りるのを見た。高い塀の向こうからするりと駆け降りて、腰掛けの上で呼吸を一つ溜めると、次の瞬間には消えて仕舞っていて、しなやかにカーヴを描いて向いの塀を越えて行ったのを想像した。風が吹き込んで、追い抜いて行く音が耳に残った。
 少しだけのつもりで腰を掛けて一服している内に、どんどん過ぎて行って仕舞った。無闇に同じ時ばかり過ごした様に思う。吸い込んで、暮れかけて、歩き出して愈愈暗くなってくると、風がゆるくなって肌寒くなるような気持ちがした。歩いているのは時間を埋めるためだけではないか知ら、などとは思わぬ ように苦心しながら足を運んだ。蚕糸の森の公園が、今すぐにでも見えてくるような気がしている。

 「そっちじゃありませんよ」
振り向くと猫がいる。いつぞやの化け猫だ。
 「どうしたのです。仕事はいいんですか」
そんな事を訊かれても困る。こちらにはこちらの事情がある。猫の知った事じゃない。

 それよりも、猫は何某君の猫であるのが気になり始めた。
 「何某君は元気かい」
 「お元気の様です。今日は東京見物に出かけました。小坊さんと一緒ですよ」
 「猫を抱えて電車に乗って。大丈夫だったかな」
 「猫なんかいませんでしたよ」
 自分が猫だと云うのが判っていないのか知ら。いやいや若しかすると、化け猫は猫とは違うと云いたいのかも知れない。しかし人間様から見れば化け猫は猫である。
 「猫なんだよ」
 猫は首を傾げている。

 「どうも遅くなって」などと云いつつ、蚕糸の森のプール機械管理室に入ると、
 「お疲れさまです」と猫が澄ましている。
 「いったいどういう事なの」
 「未だ話してない事があったんですよ」
 「ふうん」

 猫が自分のお茶を入れている。灰皿を持ち出して、紙巻をふかりふかりと始めた。

 「子供がね、生まれたんですよ」
 「はあ」
 「未だ見てないんですがね」
 「へえ、そんな物ですか」
 「そりゃあ、そう云う物でしょう」
 「相手はどんな人なんです」
 「盛りがつくと云いますね」といきなり変なことを云う。「しかしつくと云うのは可笑しいですね。本当は憑かれると云うべきでしょう」  何だか気に入らないから、雑誌でも開いて眺めていると、「逆洗してきますよ」などと云い出すから驚いた。

 「電話番お願いします」
 猫の癖に失礼なことを云うと思ったけれど、相手は化け猫である。部屋から出て行くのを見届けると、隣の椅子を引き寄せて足をのびのびと伸ばした。それからひとつ考えてみる。

 化け猫とは云えども、化けていないときは普通 の猫である。それどころか、普通以上に痩せていて目はやたらに大きくて、喧嘩はあまり強そうではない。猫の社会の事はよく知らないから判らないのだけれど、痩せっぽっちの化けない化け猫が、盛りのついたライバル達の中で、どう云う戦いを経て雌猫の気を引くことが出来たのだか想像してみる。矢張り化けたままの方が、圧倒的に分が良さそうである。しかし化けた侭では、雌猫が猫だと認知できるのか知ら。雌猫が相手にしなければ、喧嘩に加わる資格を失う様にも思われる。

 

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