西半月亭日記 (1992)
一日目
神田でパチンコをしてゐたら腹が空いて来たので、何処かに食べに行かうと思つた。いい店はないだらうかと、歩き回つてゐる内に疲れて来て、いい加減適当な店に入つた。見るとスパゲツテイだらけである。西半月亭と大きく書いてあつて、下に西洋麺とある。さては「西半月亭」でスパゲツテイと読ませるのだらうと納得し、後は気にも留めなかつた。
後日神田に用があつた帰り、東半月亭と云ふ看板を見掛けて吃驚した。さてはさては、東と西とで対になってゐるに違ひないと考え、曖昧な記憶を辿りつつ西半月亭を探し当てた。ドアが開きつ放しになつてゐて、がらんとしてゐる。
「誰もゐない」と云ったら、微かに向かうから声がした。よく聞いてみると、自分の声で あった。
「料理人もゐない。料理人がゐないんだから、誰もゐない」
仕方がないから諦めたけれど、何となく片付かない気持ちがする。それ以来、西半月亭が何処にあつたのか解らなくなつて仕舞ひ、今日に至つている。元元うろ覚へだつたから、潰れて仕舞へば解らないに違ひない。東半月亭の方は繁盛してゐるらしく、時時のみに行く事もあるが、実は東半月亭は焼鳥屋である。一字違ひの店なので、西の事も知つてゐるかも知れないが、解つて仕舞へばそれ迄なので、訊かない事にした。
二日目
予定より早く用事が済んだので、久し振りに何某君の家を訪ねる事にした。行つて見ると生憎留守で、明日にならないと帰らないと云ふ。隣町まで車を出して貰ふつもりだったけれど、仕方がない。時間の許すまでぶらぶらしてゐやうと思ひ付き、宜しく云つて玄関を出た。
駅までバスで十分くらゐなので、歩いてもそんなに掛からない。さう思つてだらだらした並木道を上つて行く内に、何時の間にかバス通 を逸れて、よく知らない道を歩いてゐた。
知つたつもりの土地でも、考へて見れば拾年も前の事である。この辺りは特に景観が変はつてゐて、先がよく解らない。俯き加減に上つて行くと、以前にもこんなふうに歩いた様な気がするし、さうではなかつた様な気もして来る。
見上げると、黒黒い枝の絡み合つた合間に、幾らか欠けた黄色い月が出てゐる。雲脚が早く、時時空が濁つてすつきりしない。小高い山山が連なつた向こう側に、日が沈まずに残つてゐるらしい。山際の、伸ばせば届きさうなくらゐ低い所を、焼けただれた雲がざらざら流れている。
辺りが非道く閑散として来て、風鈴の音がやけに耳に付いた。低い壁が長長と続いて、良く見ると、同じ様な家がだらだらと建つてゐる。同じ物干し竿が並んでゐて、円い硝子の風鈴が三つも四つもぶら下がってゐる。人の気配と云ふものがなくて、夕食時だと思はれるのに、乾いた熱風が透き通 った儘に吹き付けて来る。何だか背筋が寒くなつて、気分が悪くなった 。
道路がぐらりと揺れて、足許が浮いた様な気がした。どうやら揺れてゐるのは自分だけの様である。慌てて手を額にやつたけれど、濡れてゐるだけで普段と変はらない。気を許した儘歩いてゐると、踏み外しさうになつた。段段と五感が遠くなつて、風鈴の音がふわりと浮かんでは消え、浮かんでは消えて、歩いても歩いても切りがない様に思はれた。
熱い風が吹いてゐるのに、身体は冷え切つて仕舞つた。風鈴の音が聞こえてゐて、未だ何処かにぶら下がつてゐるのか、ただ耳に残つてゐるだけなのか、よく解らない。ふらふら歩いてゐる内に、何か柔らかい物を踏み付けた様な気がして、吃驚して飛び上がつた。背中に物凄い気配を感じて、振り返らずに走り出した。風向きが変はつて、川沿いの道になつた。遠賀川だと云ふ事は解つたが、何処へ行く道なのか解らない。温く湿つた風が首筋に絡み付いて大分気持ちがよくなつた。すつかり暗くなつてゐて、猫がみやあみやあ泣いてゐるのに混じつて人の声がする。ほつとして後ろ を見たら、痩せた目の大きい猫が、恰度膨らんでゐるところだつた。
「これは失敬、もう少しで終はるから」
膨らみながら猫が云つた。さうしてすつかり化け猫になると、二本足で立ち上がり、何処からか巻莨を取り出して、私の方に差し出した。 黙つて二人で巻莨をくゆらせてゐると、車が四五台通り過ぎて行つて、何だか猫と一緒に一服してゐるのが恥づかしくなつた。猫の方はお構いなしで歩き始めたから、仕方なく後ろからついて行つた。時時猫が振り返つて、ちやんとついて来てゐるか心配してゐる。思ひ切つて追ひ付いて、肩を並べて歩き出したけれど、矢つ張り恥づかしくて仕様がない。
「東京では、どうですか」と猫が云つた。
「適当にやつてゐるよ」
「もう拾年も帰らないので心配しましたよ」
「心配とは、何故です」 猫について路地に這入ると、見慣れた光景になつて、すつかり気が楽になつた。
「猫と歩くのは初めてだから、人の目が気になつて仕様がない」
「猫と歩くとは、どう云ふ事です」
「君は猫だらう」
「馬鹿だなあ。猫が二本足で歩きますか」
そんな事は解り切つてゐる。さう云われると、猫ぢやない様な気がして来る。人間が猫に化けてゐたのかも知れない。
「ぢやあ、君は誰です」と訊いた。
「私ですか」
「ええ」
「そんな事より、道に迷つてゐたのでせう。どうしてバス通に沿つて行かなかつたのです」
「沿つていかうと思つて、間違へたのだ」
「ふふふ。あんなふうに右や左に曲がつておいて、間違へたと云ふのは、どうもをかしい ですね」
「さうだつたか知ら」
「さうですよ。あの儘真つ直行けば、直に駅に着いてゐたのに」
そんな筈はないと思って、不愉快になつた。
「何処に住んでゐるんだい」と訊いて見た。
「何某君の家に、居候をしてゐるんです」
「ほう。さう云へば、何某君が仔猫を二匹貰つて来た事があつた」
「それは拾年前の事ですよ」 「恰度、引つ越す前の頃だな。皆で見に行つたのを覚えてゐるよ」
「さうでした」
「騒いでゐる内に、一匹から引つ掻かれた」
「さうです、さうです」
「引つ越した後で、一匹死んで仕舞つたと聞いた」
「何かに潰されたんです」
黙つてゐた。
化け猫は浮かない顔をしてゐる。 巻莨をぽいと捨てて、
「何分、昔の事ですから」と云つたつ切り、黙つて仕舞つた。
駅前の商店街に近付いて、不意に道が明るくなつた。ぽつりぽつりと、街頭に照らされた所だけ雨が降ってゐる。何某君が向こうから歩いて来るのが見えた。
「何某先生ですね」
「いや、違ふだらう。明日にならないと帰らないと云つてゐた」
「予定が早く済んだんぢやないでせうか」
段段と、何某君が距離を縮めて来る。こちらに気が付くと、明るい街灯の下で、片付かない顔をした儘立ち止まつてゐる。私に踏ん付けられて、殺されて仕舞つた仔猫と一緒にゐるのだから、困惑するのも無理はない。
三日目
郷里の道場で剣道を教へてゐる友達が、私の家に遊びに来た。近頃ははやらないさうだが、私は剣道が好きである。高校の体育で二年間剣道をやつた事があるが、小学生の頃に少し道場に通 つてゐた所為で、スポーツは概して不得手だつたにも拘らず、剣道は案外上手な方であつた。
「嘉穂君も、気を大きく持てば、もつと強くなつただらうね」
「どう云ふ事だい」
「自信を持つてゐればと云ふ事さ」
「自信はあつた筈だよ」と私は首を傾げた。
「君は勝てると思つたら物凄いけれど、さうでないと弱腰になる」と相手が云ふ。
さうだつたかも知れない。何しろ、相手の次の動きを見定める事ができなかつた。自分のペースに持ち込めば楽に勝負できたけれど、さうでないと動きが止まつて仕舞ふ。
「間合ひを計れなかった」と云った。
「それぢやあ、面白くなかつただらう」
そんな事はないと思つたけれど、黙つてゐた。
「君は剣道が面白いと云ふけれど、何が面白かつたのかい」と訊くので、
「正座して黙想するのが楽しかつた」と云つたら、相手が笑ひ出した。
稽古の前に、正座黙想をする。目を半眼に開いて雑念を振り払ふのだが、さう云へば、夏になると蚊があちらこちらに飛び交つて、それ処ぢやなかつた。少しでも身体を動かすと、先生に竹刀でぱちんとやられるから、黙つて恰好な餌食になるのを我慢してゐなくてはならない。 「立て続けに胴を二本取られたことがあつたなあ」
「覚えてゐない」と云ったけれど、そんな事もあつた様な気がする。
その日の夜、夢の中で暴漢に襲はれた。何人ゐたのか思ひ出せないけれど、時代劇の悪役の様な姿で、拾数人はゐたに違ひない。恰度腰に真剣を差してゐたので、思ひ切つて抜いて、ばさりばさりと切り始めた。自信を持つて刀を握つてゐたら、忽ちの内に死体の堆い山ができてゐて、最後の一人もばつさりと切つて仕舞ひ、目が覚めた。
後から考へると、後味が悪くて仕様がない。せめて峰打ちにしておけば良かつたと、自分の非情な仕打を悔やんだ。