もう随分長い間        (1990)               

この作品は、私の記憶にある「僕」の語りをもとにあらすじをスケッチし、「僕」のイメージする世界を加味しつつ、推考していったものである。作中の“神々の闘争”は“闘争”の誤りである。正しくは人間と神人との闘争なので、語り手は完全な間違いを犯していることになる。なお、興味のある方は、スクリャビンの「神聖な詩」を聞いてみるのもよい。ちなみに私が持っているのは、一九七六年のライヴの録音であまり音質はよくないが、演奏はよい。           

Alexzander Scriabin

Symphony No.3 in c mor "Le Divin Poeme"

1. Lento-Luttes [Struggles] (Allegro)

2. Voluptes [Sensual Pleasures] (Lento)

3. Jeu Divin [Divine Play] (Allegro)

Concertgebouw orchestra, Amsterdam

Kiril kondrashin, conductor

 

 時計が午前二時を回った頃、僕は洗濯物の袋を抱えてコインランドリーの部屋を出た。寮の玄関はひっそりと暗闇で、スリッパの冷たい音の響きだけが、闇に潜む不条理の存在を追い払い、打ち消していた。
 睡魔に頭の半分を侵されていた僕は、朝取り忘れていた新聞を取るという、今日最後の任務を辛うじて思い出すと、半ば眠っている身体を奮い起こし、靴箱に向かって 身体を運んだ。それからやっと十回目くらいに、うまく新聞を洗濯物の上にのっけると、エレベターの前までやってきた。そして、ボタンを押すとエレベーターの扉が開き、僕はその中に倒れ込むように向かって行き、扉が閉じるのを待った。  それからたぶん、僕はCのボタンを押したはずだ。そのときは、そのつもりだった。でも、考えてみれば、そのときエレベーターが本当に上に向かっていたのかどうかは、はっきりしない。そう、エレベーターは確かに作動していた。しかし、扉が開いたとき、そこは四階の僕の部屋の前、ではなかった。
 そう、そこは真っ白だった。空白の空間だった。そう、私はどこかに着いたのだ。ここはどこであるべきなのだろう。ここは何かどこかでなくてはならないのだ。

 冷えた静寂が取り囲んでいる。
 視界が何かに遮られているのか、それとも単にただ眼が開いていないのか、僕は自分がどこに立っているのか分からなかった。
 しばらくして耳鳴りの音が小さくなり、しだいに聴覚が甦ってきた。同時に、辺りを支配しているざわめきが、何か秩序を感じさせることに気付いた。音楽が鳴っている。そう思うとそんな気がしてきた。
 しだいに聞き慣れたメロディーが湧き上がってきて、僕には、「神聖な詩」の“神々の闘争”が聞こえていることが分かった。聞きながら、僕はぼんやりと立っていた。
 音楽が最高潮に達すると、もう夜も明けて左右に雨戸を開くその瞬間のように、闘う神々の姿が、懐かしさと眩しさとともに出現した。しかし、その姿は映像のように空虚だった。本当にそこに神がいるようには思えなかった。
 神々は互いに罵りあい、殴り合い、はたまた人間を操って争っていた。
 こわばっていた全身がほぐれていく。濁っていた心が、光を通すようになる。そして、僕は、歩かなくてはならなかったことを思い出した。
 歩きながら、僕は神々の闘う様を見ていた。白い影がうごめきもつれ合い、ときには見えない閃光が炸裂していたりした。その様子は、眼で見ているというよりは、心で見ているという感じだった。
 僕は神々の周りをひたすらに歩いていた。おそらく僕は、神々の争いを真ん中にして、大きな円を描いて歩いていたのだろう。そして、僕がそのことに気付いた瞬間、僕は白いタイルを敷いた小道の上を歩いていたのだった。その道は明らかに円弧 の一部であって、円く閉ざされているようだった。僕は歩きながら、辺りの霧(霧‥‥‥!?)に包まれた(今まで霧なんかあったんだっけ‥‥‥?)風景を眺めていた。  何だか、白い箱の中にいるような気がした。
 霧の先はもう何も見えなかった。僕はちょっと知らんぷりでもしている風に、ただぐるぐると円く歩いた。
 蝋燭を持って白い線の上を歩かされた、キリスト教系の幼稚園の思い出なんかが、ふと、頭に浮かんできて、僕はただひたすら歩いていた。
 そのうちだんだん、同じところを回っているのにも飽きてきた頃、僕は螺旋階段なんかを思いついた。すると、いきなり足を運ぶ一歩一歩が重たくなったのだ。僕は少しよろめきながら、やっぱり、階段を上っていた。
 僕はどんどん上っていった。全然疲れなかった。何故って、僕はあっという間に、もう随分高いところにまで来てしまっていたのだから。  僕は神々のことを思い出して、下の方を眺めた。するとやっぱり、白いガウンを着た神と、白い着物を着た神とが、白い稲妻を操って闘っていた。神々は透明になったり、くっきりと姿を現したりしながら、まるで儀式のように、ただ闘っているだけだった。
 そのもっと下には街が見え、街には人々が賑やかにあふれ、街ごとみんな白かった。
 僕は走っていた。まあるい円を描いて走っていた。下の賑やかで騒がしい街に行ってみたかったけれど、行きたいと思えばすぐ、街が目の前に広がるような、そんな気がしたけれど、僕はそれを止めにした。物語の辻褄は合わせたい、そんな意地があったのかもしれない。  第一、僕は走るのを止められなかった。いきなり立ち止まったりしたら、僕はこの世界から抹殺されてしまう。僕は不安になった。自分の描くまあるい円の半径が、だんだん小さくなっていくような気がした。
 僕は走りながら上を見た。精一杯上体を反らして走った。螺旋の先は見えなかった。でも、間違いなく半径は小さくなっていた。いつか階段の幅が狭くなって、僕は走るのを止めなくてはならなくなる。僕はそれを恐れた。僕は、幼い頃に見た悪夢のことを思い出していた。思えばこんな追い詰められた気分を味わうのも、今が初めてではなかった。その昔にも、こんなことがあったような。僕はそれを必死に思い出そうとした。思い出せ。思い出せ。何か分からない。分からない何かが僕を包み込もうとしている。僕は走った。僕の一歩一歩のすぐ後ろから、階段が崩れ落ちていく。僕は爪先で走り続けた。
 考えてはならないことを考えていることは、自分でも分かっていた。呼吸するのがつらくなった。怖さが僕の走るのを止めさせようとしていた。そして、そのことが僕を恐怖に陥れる。僕はただひたすら恐怖に向かって走るしかなかった。シャツの背中がぐしょぐしょで気持ちが悪い。誰かが僕を笑っていた。いや、笑っていたのは僕自身かもしれない。ときどき足を踏み外しそうになる。いっそのこと踏み外してしまえば。
(飛び降りる‥‥‥!?)
 ああ、そうだ。途端に僕は新たな可能性を見いだした。まっすぐ走ればいい。僕が走れば道はおのずとついてくるのだから。なんでこんなことに今まで気がつかなかったんだ。だいたい、この階段にはいつの間にか手摺さえなくなっているじゃないか。
(手摺?そんなものあったっけ?)
 とにかくまっすぐ走るんだ。あと五回まわったところで、まっすぐに。あと三回。あと一回。いやっ、あと一回は早過ぎる。あと十回だ。あと八、六、四、二、よし、まっすぐ‥‥‥!?
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 そうして僕は、まっすぐ、セメント色の道を駆けていた。なんとなく自分に満足なんかしながら。
 僕はゆっくり、ゆっくりと足運びを緩めて、やがて僕は、近づいてくる街に向かって、歩いていた。姿勢を正して。ゆったりと足を運んで。
 街は寂れていた。人々は僕を知っていて、知らない振りをしていた。僕はやって来るたくさんの人々と擦れ違った。そして、擦れ違う度に、どこかで鈴の音がしていた。
 いろんな人たちと擦れ違った。警察官。消防士。お坊さんに、有名人。馬車に乗った貴族たちと、大正風の書生。ギリシャの重装歩兵、散っているのは桜の花びら、子供たち、背広を着たサラリーマン、予備校生たち、おみくじを結んである木々、お墓参りに来た若い家族、そう、いつの間にか、僕は市場を通 り過ぎてしまっていた。
 そうして、僕は歩いていた。道なんかなかった。僕は誰かに会うために歩いていた。もう周りには誰もいやしなかった。僕は、静かに物音ひとつ立てずに、ただ歩いていた。小さな扉を目指して。僕は扉から眼を離さずにいた。もしも、扉からわずかな隙間ができるようなことがあって、光が、ほんの少しでも漏れるようなことがあったら、それを、絶対に見逃さないって。
 僕は扉に近づく。
 それは、近づこうと思えば、いつでも近づけるのだ。
 それは、開けようと思えば、いつでも開くのだ。  いつか僕は扉を開くだろう。
 けれども、もし、あの人が困った顔をすれば、僕は行き場を失ってしまう。

 そして、ぼくは扉の前に立っている。もう随分長い間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

色のない図書館          (1991)

 コインランドリーの乾燥機に二週間分の衣類をぶち込んだ帰り道、僕は自分の本棚に並べてある様々な本について考えていた。
 半年ほど前に僕は「ブックカヴァーとエクリチュール」という短い文章を記したのだが(註・一九九一年十二月現在には、この文章は発表されていない)、本屋さんの店員が親切にも一冊一冊に付けてくれるあのブックカヴァーを、いずれは全ての本から取り去ることをほのめかして文章を締めくくっていたように思う。あれから僕の本棚は随分と様変わりし、大半の本は本来の姿をあらわに並べてある。「既製の秩序の破壊」である。 
 とは言え、本の背は新たに出版社を表すことになり、新しい秩序が既に形成されてしまったことは明白である。依然として僕の本棚は一定の秩序を保っているのである。
 一冊の本の個性を妨げるこの秩序は、少なくとも僕にとって、その本の価値とは全く無関係に思える。例えばハヤカワ文庫である。ハヤカワSF文庫というだけで読まれる機会の少ない本が、僕の知っているだけでも沢山あるのだ。G.ベンフォードの「アレフの彼方」やヴォネガットの「猫のゆりかご」などはSFファンならずとも是非とも読んで欲しい傑作である。それらの本はSFなどという枠を越えた、本質的に優れた価値を持っているのだ。実際アメリカでは、ヴォネガット作品はSFを越えた文学として受け入れられている。しかし所詮ハヤカワ文庫であることも否定できない事実だ。
 岩波文庫だって逆の意味で同様の被害を被っていると言えよう。一つの作品を越えた何らかの威厳が備わっていることは確かだ。作品の立場から言えば、なんと馬鹿げた話であろうか。
 とすると、表紙のデザインも必要悪なものとなってこよう。良くマッチしたデザインがある分、あまりそぐわないデザインもある。本の内容に係わらず、そんなもので手にするかしないかを決めてしまうのが現実である。
 そう考えていくうちに、僕が思い当たったのはミシェル・フーコー(仏、一九二九〜八四)がどこかで言っていた言葉だ。正確には思い出せないが、要するに文章とその著者との間に、どうして何らかの関連性を見出さなくてはならないのかという疑問である。作品の著者とは、読者に何らかの安心をもたらす為に存在するに過ぎないのではないか。僕が読んでいるものはいったい著者の人生の一部分なのか、それとも一個のテクストなのか、それとも‥‥‥。
 今や本の装丁もその著者も無用となってしまった。そうすると残るのは、本の題名と真っ白な背表紙である。(じゃあ、題名はどう扱えば良いのだろう。これもやっぱり不要な秩序なんだろうか?)
 僕の頭の中には、真っ白い本の並んだ図書館が浮かび上がる。一切の記号が剥奪され、白い無地の表紙をまとった本、本、本。白塗りの壁の中で、無言の本棚たちを巡って僕は彷徨っている。霊感だけを頼りに一冊一冊引き抜いては中身を確かめつつ歩く。静寂が辺りを支配し、僕の足音だけが僕の内側に響いてくる。本は何も語りかけて来ない。
 やがて僕は、鉛筆を持ってその白い背中に薄く警告を書き込み始める。「傑作短編集?」、「平凡なファンタジー。二度と手にするな」、「疲れたときに読むべき作品」等々。

 「本を汚されては困ります」
 僕がふり返ると、山吹色のセーターを着た小柄な女の子が困った顔をして立っていた。
 「ああ、すみません」と僕は即座に謝った。
 「早く消さないと。誰かに見られたら出入り禁止になってしまいますよ」
 彼女はポケットから消しゴムを取り出した。まるでいつも用意しているかのようだった。
 「なんでだめなんですか」僕は訊いてみた。
 「さあ、でも急がないと」
 僕は本の背に書き込んだ警告を一つ一つ丁寧に消し始めた。消しながら僕は彼女に話し掛けた。
 「白だと汚れやすいと思うんだけど、どの本もほんとに真っ白ですね」
 ふと見れば、彼女は泣きそうになっていた。
 「どうしたんですか。急がなくっちゃいけないんだったら、ちょっと手伝ってくれませんか」と僕は頼んでみた。
 「だって、手伝ってはいけないんです」と彼女はおびえた顔で言った。  「手伝ったら私も出て行かなくてはならないんです。誰だってそんなわけにはいかないわ」
 僕は初めて恐怖を覚えた。どういうことなのかさっぱり分からなかったが、女の子の様子から、僕は何かとてもまずいことをしているようだった。
 けれども僕はほとんどの書き込みを消し終えていて、もう二、三冊だけで最後だった。
 「ほら、もうすぐです」
 女の子はそこにはいなかった。鉛筆も消しゴムも消えていた。本棚には白い本が、壁からはいつの間にか窓も扉も消え失せ、白い空間の中に僕は独り立っていた。
 街のざわめきが耳を通り過ぎていく。壁の向こうには、歩く人たちや車や向かいの小さな床屋が透けて見えてくる。
 僕は独りだった。     
 僕は図書館から追放されたのだ。
 僕は街に戻る扉を失ったのだ。
 じゃあ、僕はいったいどこにいるのだろう。

 僕は赤いソファーに横になっていた。目の前には開けっ放しの扉があった。それは図書室に続く扉だった。
 「気分はどうですか」
 背広の似合わない若い男が、側の机に座っていた。
 「ああ」
 「驚きましたよ」
 「はあ」
 「きれいに消えてよかったですね」と若い男はにやっと笑って続けた。
 「貧血気味なんですか。彼女困ってましたよ」
 僕はソファーから起き上がった。まだふらふらしていた。辺りを見回すと、やっぱり公民館だった。町の人たちがゆるやかに移動しているのが眼に入ってきた。見慣れた光景だった。あの白い図書室を除けば。
 「どうも迷惑かけてすみませんでした」と僕は立ち上がった。
 若い男はうなずいた。僕がそのまま歩いて行こうとすると、彼はそれを押し留めた。「ちょっと待って下さい。館長が来ますから」仕方がないので僕はソファーに座り込むと人々の流れを見守った。彼らのほとんどは、閲覧室のある二階の方へ急いでいた。残りは雑誌コーナーに向かう者が大半で、問題の白い図書室に入っていく人はちらりほらりといるだけだった。
 「忙しいところをすみません」
 僕は驚いて声のした方を見た。
 「いえ、別に忙しくなんかないです」
 「ああ、そうですか。先程はうちの職員が迷惑をかけまして」
 「ははあ」
 「最近本にいたずらする者が増えましてね。厳しく監視するように言い付けておいたのですが、いやなに、跡が残らなければ一向に構わんのですよ」
 「ああ、そうなんですか」
 どうやら彼がここの館長らしかった。
 「あの図書室は新しく造り直したものなんで、もともとあった本は別館に移したんです」
 そう言って彼は僕の隣に座り込んだ。頭の大きい中年の男だった。茶色の作業着のような服の下に背広が透けて見えていた。
 「あの部屋の本は全部私の父が書いたものなんです」と彼は申し訳なさそうな表情を作った。「全部題名が付いていない。一応本の体裁はとっていますが、なにぶん自費出版だし、あのように表紙は無地の真っ白けなんですよ」
 僕はうなずいて彼の横顔を眺めた。彼はまっすぐ図書室の方を見つめていた。
 「なにか気に入ったものはありましたか」
 「あの体の冷たい渡り鳥の話に、なんとなく心魅かれるものがありました」と僕は答えた。「空の天気の具合の描写 がなんとも言えず良かったです」
 彼はしばらく黙っていた。さっきの若い男が白い図書室の中に消えていくのが見えた。代わりに山吹色の女の子が出て来て、こちらに気付くと、困った風にどこかへ駆けだして行った。
 「あの娘にはきつく言い過ぎたようですね。でも、前に一度、ボールペンでいたずら書きする者がいまして、大変困ったんです」
 「それでどうしたんですか」
 「もう一度、製本し直してもらっているんです。結局誰のいたずらなのかも分からずじまいでした」
 僕は図書室の左前にある受付の上の時計を眺めていた。黄色の秒針ははっきり見えたけれど、他の針はぼやけて良く見えなかった。
 「お願いがあるんですが」
と中年の館長は、僕の方に向き直って言った。
 「渡り鳥の物語に、題を付けて欲しいんです」
 「題ですか」
 「それから表紙に絵を描いてほしいのです」
 僕は何とも答えられず黙ってしまった。
 「気に入ってくれた人に題を付けてもらっては、その本を別館に移してやっているんです。そうでないと本がかわいそうだ。私の仕事は、あの白い本たちにちゃんとした本の仲間入りをさせてやることなんです」
 僕はしばらく黙っていた。それから「いいですよ」と言った。
 僕たちは白い図書室に入っていく男の子を眺めていた。青い野球帽をかぶったその男の子は、図書室に入ったきりなかなか出て来なかった。
 僕はどんな絵を描いてやろうか考え始めた。
 冷たい体の渡り鳥。
 ガラス張りの天国。
 缶コーヒーの空き缶と、その中にいた‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 トゥルルルルルルル トゥルルルルルルル トゥルルル‥‥‥
 いつの間にか、アパートにたどり着いてしまっていた。
 電話の音は、自分の部屋の中から聞こえてくるようだった。と思った瞬間に、僕はあわてて部屋に駆け込み、白い図書室とはさよならをしたわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音の細工師            1991年1月

 国家ハミンの東のはずれに、カノトゥールフという小さな町があります。カノトゥールフの町は、海のそばにあるとても美しい町でした。この美しい町に、大変優れた腕を持つ一人のガラス細工師が住んでいました。
 夏が過ぎ、ようやく涼しくなってきた頃、そのガラス細工師が浜辺を散歩していました。澄みわたった海の青さは、細工師にとっていい刺激になったのです。そして、陽も沈み切ろうとしていたそのとき、細工師は青いガラスの箱を見つけました。細工師はそれを拾いあげて、思わず海の色と見比べました。箱の不思議な色合いは、まるで海の色のようだったのです。いいものを拾った、と細工師は嬉しくなりました。そのとき、なにか不思議な衝撃が細工師を襲ったのでした。彼は不意に、ガラスの箱を岩の上に落としてしまったのです。       

ふぁるたーも るるりくいてす みやうんりっみあすと       
うぇるたーも ゆゆいどっぽむ ひずくぃんでっみあすと       
……………………………

 割れたガラスの箱の中から、こんな知らない国の言葉の歌が聞こえてきたのです。音の瓶詰めだったんだ、と細工師は思いました。そしてやがて、ふつりと、ガラスの破片はなにも言わなくなりました。そこで細工師はその瓶の破片をできるだけ全部拾うと、自分の小さな工場に持って帰ったのです。     
 次の日細工師は、国家ハミンの中で一番大きな港町の、都市ハミンに出掛けました。知り合いの商人の家を訪ねたのです。
 細工師は、あの破片をつなぎ合わせて復元した青いガラスの箱を持って行きました。そしてそれを、商人に見せたのです。
「こういうものを見たことないかい」
「ああ、これは音細工じゃあないか 」
商人はこれを手に入れたわけを尋ねたので、細工師は浜で拾ったと答えました。
「ああ、それは惜しいことをした。割っていなかったら、高く売れたのに」
「僕はこれと同じものが二つ三つ欲しいんだ」
「馬鹿をいっちゃあいけない。音細工は大変高価なものなんだ。私のようなふつうの商人が扱う品じゃあないんだよ」
 細工師はがっかりしました。彼はガラス細工師としては、腕はよかったのですが、貧乏だったのでした。
 家に戻った細工師は、知り合いの歌うたいの家を訪ねました。お金で手に入れることができないなら、自分で作るしかないと考えたのでした。 
 細工師が歌うたいにわけを話すと、歌うたいもそれに賛成しました。細工師はその日から工場にこもって、ガラスの箱の研究を始めました。     
 それから一年たって、ガラスの箱を割ったとき、どうやら歌声のような音が聞こえるようになりました。
 それから三年たって、歌声の半分くらいの美しさが、ガラスの破片から聞こえるようになりました。
 それから五年たって、歌声の四分の三くらいの美しさが、ガラスの破片から聞こえるようになりました。歌うたいは、もうそろそろいいんじゃないかと思い始めていましたが、細工師は納得しませんでした。
 それから八年たって、歌声の五分の四くらいの美しさが、ガラスの破片から聞こえてくるようになったのです。細工師はまだまだ納得がいきませんでしたが、歌うたいはこれ以上つきあいきれないと、どこか遠くに行ってしまいました。
 しかしこのくらいのことでは、細工師はあきらめ切れませんでした。彼は カノトゥールフに住む全ての歌うたいにわけを話し、協力を求めました。応じる者は大勢いました。細工師はまだまだ仕事が続けられると思いました。
 ところがうまくいかなかったのです。箱はどれもうんともすんとも言わなかったのです。歌声の波長とガラスのなにかが、うまく噛み合わないようでした。それでも細工師は二年の間がんばりました。
 そしてある日、細工師は カノトゥールフの町から消えてしまいました。工場からは、未完成のガラスの箱が全て消え失せていたのでした。

                        *

 十一月王国チェレルータの都に向かう船が、港町メフを出発しました。船にはいろいろな国々のいろいろな人々が乗り込んでいました。
 出港して二日たったある朝、船は嵐に巻き込まれたのです。もう誰もが、もはやこれまでだと思いました。船はあまり大きくなかったし、この辺りの嵐は尋常なものではなかったのです。風はますます強くなり、船もますます大きく揺れ、いまにも波に呑まれそうになりました。  そしてそのときに、奇跡が起こったのです。
「チャリン」
それはガラスの割れる音でした。この音を合図に、歌声がどこからともなく聞こえてきたのでした。それは、とても美しい歌声でした。その穏やかな、なぐさめるような歌声は、嵐の狂暴さにわずかに勝っていたのです。嵐は小さくなり始めました。
 はじめ、人々はこの歌声と嵐との闘いを、ただじっと見ているだけでした。その間にも、歌声は嵐を押しやり始めました。そして、それに勇気付けられた人々は、ガラスの歌声に加わりました。美しく澄んだガラスの歌声は、いつの間にか聞こえなくなっていましたが、人々の元気で力強い歌声は嵐を圧倒しました。やがて、嵐は過ぎ去っていったのです。
 一人の若者が涙を浮かべて、割れたガラスの一片を拾いあげました。若者はゆっくりとある老人の方に歩みより、言いました。
「老いた御方よ。あなたはこの音細工をどうなさったのですか」 老人は何も聞いていないかのように黙っていました。
「それで分かりました。これを作ったのはあなたです。なんということだ。僕はこれほど美しい音細工を見たことも聞いたこともなかった。失礼ですが、あなたはチェレルータの御仁ではない。そうでしょう。こんなすばらしい細工師が、外国にいたなんて。僕の国にはこんなものしかないんですよ」
 若者は青いガラスの箱を取り出しました。いつか浜辺で拾ったそれでした。
「チャリン」
青い破片のうたう歌はどこかで聞いた歌。そうです。浜辺のあのときの歌でした。       

ふぁるたーも るるりくいてす みやうんりっみあすと         
うぇるたーも ゆゆいどっぽむ ひずくぃんでっみあすと         
……………………………

 それは、それほど美しい歌声ではなかったのです。老人の心の中で何十年もの間に理想化されていた浜辺の歌声は、一瞬のうちに壊れてしまいました。今聞いているガラスの歌声は、歌うたいも、ガラス細工師も、浜辺のものと同じであることには間違いなかったのでした。
 老人は静かに涙を流しました。老人は、死んだ友達の歌うたいのことを考えていました。それから、さっき割った五分の四の美しさの箱のことを考えていました。そして、そっとつぶやいたのです。
「あいつが私とこの船をすくったんだ」        

 海はすっかり静まりかえっています。船は港に近づいていきます。
 老人はずっと海を眺めていました。
 そう、いつまでも、眺めていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

息つぎ        1992年

 「研究室が破壊されちまった」トレンステ・ハイランスクがぶつぶつ言った。「おれのシロプルム=フリンごと消えちまいやがった」
 「それ、どういうこと」リルホート・ラコアが言った。彼女はアリ・オリ・ゴドルヌの宗教哲学の論文を読んでいたのだ。
 「〈異空間〉が食っちまったんだ」
 「キリアが〈異空間〉なんてないって言ってたわ」
 「あいつはただの理論家だよ。典型的なゴドルヌ教信者だ」
 ハイランスクはちらっとラコアの顔を見た。しかし彼女は気にも留めていないふうだ。しばらくの間、ハイランスクはそんな彼女を眺めていた。
 「わたし別に信者じゃないわ」ラコアが言った。
 「ああ、分かってる」
 ハイランスクは不満そうに、携帯用の立体パネルの幻想を見つめていた。もうすぐ午後のティータイムが終わってしまう。彼にはあまり時間がないのだ。

 「やあ、トレン。あまり元気そうじゃないな」そう言いながらアレクサンダー・カイルラップが休憩室に入ってきた。
 「僕に話があるんだって」
 「なにがあった」
 「あの〈異空間〉の実験が成功した」
 「ほう、キリアの驚く顔が見たいな」
 「ああ。だが、〈異空間〉の様子がおかしいんだ。真空エネルギーを場に開放したとたんに、勝手に成長し始めたんだ」        

 ところで、あなたはグルファード・クラファソムの驚くべき推定、〈異空間理論〉をご存じだろうか。〈異空間〉とは、五つの基本的法則とそれに付随する十二の規則、それから〈クラファソムの基本プログラム〉によって形成される、異質な空想上の同次元宇宙である。〈異空間〉は理論上、我々の宇宙空間とは相入れないもので、キリア・ラクエルをはじめ多くの学者によってその存在を否定されている。しかしグルファード・クラファソムに敬意を抱く人々は少なくない。彼らによって、なんども 〈異空間〉実現化の実験が行われてきている。けれども今のところ成功していなかった。
 「まるでプログラムを荒らすコンピューター・ウィルスみたいだ。〈異空間〉のやつ、おれたちの空間を食って成長しやがる」ハイランスクがうめいた。
 「おいおい、おまえだけの宇宙じゃないんだぞ」カイルラップが叫んだ。「どうにかして暴走を食い止めないと、僕たちが食われてしまうじゃないか」
 「それ、本当なの」ラコアが悲鳴をあげた。
 「こりゃあ、みんなで考えたほうがいい」カイルラップが断言した。
 「グルップとカズラフ、キリアも呼ぼう」

 その間も 〈異空間〉は膨張を止めない。冥王星のトレンステ・ハイランスクの研究所を飲み込み、実験地域を破壊しつつあるのだ。  

 「僕は聞いてないぞ」カズラフ・コヤマが文句をつけた。「いずれ実験する時は相談するって言ってたじゃないか」
 「時間がなかったんだ」申し訳なさそうにハイランスクが弁解した。
 「〈異空間〉発生装置の原理が聞きたい」キリア・ラクエルがたずねた。
 「後にしよう」グルファード・クラファソムが言った。「集まった中には〈異空間理論〉を理解していない者もいる。理論の説明のほうが先だ 」
 カズラフとカイルラップがうなずき、ラコアは黙っていた。
 「説明してくれ」カイルラップがうながした。

 さて、 〈異空間理論〉は素人の手に負えるものではない。その間、我々は集まった人々を観察することにしよう。集まっているのは六人。五人は男で、残りのひとりは女性である。
 まず、テーブル中央にある立体パネルの幻想で、〈異空間理論〉を説明しているグルファード・クラファソム。彼は数学者で、エンジニアで、理論物理学者でもある。彼は全太陽系を驚愕と困惑に陥らせた〈異空間理論〉の発見者だ。この奇妙な理論は、大きな心臓と快活な笑い声を持つ彼らしい、ユーモアに満ち満ちたものである。
 次に、氷の入ったグラスをもてあそんでいるのがカズラフ・コヤマ。彼は数学者だが、詩人で、画家で、作曲家でもある。いつも彼は大衆芸術の頂点にいる。内に秘めた天才だとも言われている。
 〈異空間理論〉否定論者の筆頭だったキリア・ラクエルは、気まずそうにもじもじしている。彼がゴドルヌ教の熱心な信者であることは、知らない者はいない。
 二枚のレンズでできた珍しい〈眼鏡〉を耳に掛けたアレクサンダー・カイルラップは、芸術界でも名の知られた物理学者である。楽天的で逆境にも強い彼は、今をときめく〈複雑な細胞プロジェクト〉の積極的な推進者のひとりである。
 ショートカットの美しい栗色の髪を持つリルホート・ラコアは、〈惑星地球研究地域〉の最高責任者だ。彼女の才能と美しさには、ほとんどの男は頭が上がらない。かなり人見知りする性格なので、彼女と知り合いになることは大変光栄なことだ。
 黙ったまま空想に頭をめぐらしているふうな男は、この事件の原因となったトレンステ・ハイランスクだ。彼はクラファソムに並ぶ天才物理学者である。やや自分勝手だが責任感は強い。

 室内には、今はやりの微香性の香風が行き渡っている。ひととおり説明の終えたクラファソムは、パネルの幻想を閉じ、テーブルにコーヒーを命じた。
 「おれは〈レノウの場〉から〈異空間〉実現のヒントを得たんだ」ハイランスクが言った。「発生した〈異空間〉は絶対0度近くで自在に制御できるはずだった。そして、温度が上がれば自然に消滅するはずだった。けれども実際はどうだ。真空エネルギーを開放したら〈異空間〉は膨張しちまったんだ。理論的に不安定な〈異空間〉が、安定どころか、我々の空間を不安定なものにしちまいやがった」
 一同は黙ったまま聞いていた。ハイランスクはラクエルをちらっと見て話を続けた。
 「発生装置は無論シロプルム=フリンだ。プログラムは持ってきたけれど、いかんせんシロプルム=フリンの基本設定がないからどうしていいのか分からない」
 シロプルム=フリンはその使用者によって性格が違う。シロプルムは使用者の脳細胞の能力を拡大するものだ。だから他人のシロプルムを用いる際は翻訳機が必要だし、それがあっても完全に使いこなすには至らない。すなわち個々の基本システムがないことには、プログラムがあってもその内容を再現するのはほとんど不可能に近い。
 「制御室は破壊されたの」ラコアがたずねた。
 「いや、まだだと思う」
 「制御室にあなたのシロプルムの複製がなかったかしら」
 「あったかもしれないな」
 気を利かせたテーブルがコーヒーを出すのを控えている。
 「それがあれば、プログラムの解読に多少は役に立つだろう」クラファソムが言った。「トレン、急いで冥王星に戻るんだ。僕とカイルラップで翻訳機を用意する。キリアはワクチンの方程式を算出してくれ。カズラフとラコアは必要と思われる機材と情報を集めてくれ」
 「やっぱり〈異空間〉発生装置は必要だっけ」カズラフが不思議そうに言った。
 「必要だ。〈異空間〉を退治するワクチン空間は〈異空間〉の中で創らなくちゃだめなんだ。それには制御された〈異空間〉が必要だ」ラクエルが叫んだ。  六人は忙しそうに散り散りになった。          

 しかし、膨張を続ける 〈異空間〉は制御室も飲み込みつつあった。いずれ冥王星はバランスを崩して崩壊するだろう。そして、他の惑星も同様の運命にあるのだ。

 キリア・ラクエルが興奮して研究室に飛び込んできた。
 「すごいぞ。面白いものができた」
 「ワクチンの方程式ならさっき見せてもらったぞ」カイルラップが怒鳴った。
 「〈ラクエルの場〉と名付けよう」ラクエルは息をはずませて言った。
 「〈異空間〉に侵されない方法が分かったんだ」
 「なんだって」クラファソムが椅子から立ち上がった。
 「〈異空間〉がこの宇宙に優位に立った理由はこの宇宙がプラファ的だからだ。だからそのプラファを弱めてやれば、まあそれが〈ラクエルの場〉って言うんだけど、その中では〈異空間〉に侵されることはない」
 「プラファって何だ」カイルラップが目を瞬かせた。  「ラコアが付けた名前なんだが、なんでも彼女が以前飼ってた木星産の猫の種類で‥‥‥」
 「そんなことはどうでもいい。太陽系の全人類と全生物の生命が係わってるんだぞ」カイルラップは発狂寸前になった。
 「それは駄目なんだ」途端にラクエルはしょんぼりして言った。「〈ラクエルの場〉の発生には広い場所は適さない。ここみたいな〈衛生ステーション〉なら小さくていいんだが、それ以外は絶対無理だ。もう一つ、ここはプラファがもともと弱いんだ。だけど、ここ以外となると‥‥‥」
 カイルラップは返事をしなかった。クラファソムは思わず目を伏せてしまった。

 そのころ、急速に広がった 〈異空間〉は、天才物理学者トレンステ・ハイランスクもろとも冥王星を飲み込んだ。太陽系の全てが飲み込まれるのも時間の問題だろう。

 「やぁ、冥王星はもうダメだね」コヤマがつぶやいた。
 「もう崩壊した」カイルラップが答えた。「トレンは帰っていない」
 「僕はトウビーのことを思い出すよ」コヤマが言った。「彼が実験中の事故で死んだのは、あいつが十七歳の時だった。もう四年も前になるなぁ」
 「彼は私達の中でも、特に際立っていたわ」ラコアが静かに言った。     
 「もし彼が生きていたら、ねぇ、こんなことくらい彼にはなんでもなかったんじゃないかしら」
 「確かに彼は我々よりも優れていた」クラファソムが穏やかに言った。
 「しかし、もう過去のことだ。もしも、なんていう時の流れに反する仮定はやめた方がいい」
 「運命論っていうのは反省は無意味って言ってることなのよ」ラコアが言った。
 「忘れようと思っても忘れられないことがあるだろう」コヤマが言った。「わざわざ無理に省みる必要はないよ」
 「ここは安全だ」ラクエルが陽気に言った。「〈ラクエルの場〉がぐるりと取り囲んでいる。あと数分で作動するよ」
 「ここにはいつ来るんだい」クラファソムが言った。
 「あと七時間したら地球の溶けていくのが見れるよ」カイルラップが答えた。
 七時間なんてあっという間だ。

 「さあてまた一仕事だ」ラクエルが伸びをした。
 「とにかくここには太陽系で最も優れた頭脳が五つもあるんだから」ラコアが言った。
 「僕のシロプリムも健在だ。二十四人の、五人だっけ、助手たちも生きている」カイルラップが言った。  
 「多すぎるぐらいだ」コヤマが顔をしかめた。
 「今度の仕事は今までとは較べものにならないほど大きいぞ」クラファソムが快活に言った。  彼らは太陽系を復活させるプロジェクトを開始したのだ。この分ではあと半年で細部の設計図も出来上がり、三年もすればだいたいのところは完成するだろう。
 「人間の文化の歴史は全部この中に入っている」コヤマが得意そうに言って、手にしている携帯パネルの幻想を眺めた。  
 「木星の衛星を全部調べておくのは忘れていたな」クラファソムが言った。  
 「僕が卒園式にスケッチしたのがあるよ」ラクエルが楽しそうに答えた。              

 彼らの仕事は数年で完了するにちがいない。そのときはまた、何も知らない数百億もの人類とその文化が、華々しく復活することであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西半月亭日記        (1992)                 

一日目

 神田でパチンコをしてゐたら腹が空いて来たので、何処かに食べに行かうと思つた。いい店はないだらうかと、歩き回つてゐる内に疲れて来て、いい加減適当な店に入つた。見るとスパゲツテイだらけである。西半月亭と大きく書いてあつて、下に西洋麺とある。さては「西半月亭」でスパゲツテイと読ませるのだらうと納得し、後は気にも留めなかつた。
 後日神田に用があつた帰り、東半月亭と云ふ看板を見掛けて吃驚した。さてはさては、東と西とで対になってゐるに違ひないと考え、曖昧な記憶を辿りつつ西半月亭を探し当てた。ドアが開きつ放しになつてゐて、がらんとしてゐる。
「誰もゐない」と云ったら、微かに向かうから声がした。よく聞いてみると、自分の声で あった。
「料理人もゐない。料理人がゐないんだから、誰もゐない」
 仕方がないから諦めたけれど、何となく片付かない気持ちがする。それ以来、西半月亭が何処にあつたのか解らなくなつて仕舞ひ、今日に至つている。元元うろ覚へだつたから、潰れて仕舞へば解らないに違ひない。東半月亭の方は繁盛してゐるらしく、時時のみに行く事もあるが、実は東半月亭は焼鳥屋である。一字違ひの店なので、西の事も知つてゐるかも知れないが、解つて仕舞へばそれ迄なので、訊かない事にした。                 

二日目

 予定より早く用事が済んだので、久し振りに何某君の家を訪ねる事にした。行つて見ると生憎留守で、明日にならないと帰らないと云ふ。隣町まで車を出して貰ふつもりだったけれど、仕方がない。時間の許すまでぶらぶらしてゐやうと思ひ付き、宜しく云つて玄関を出た。
 駅までバスで十分くらゐなので、歩いてもそんなに掛からない。さう思つてだらだらした並木道を上つて行く内に、何時の間にかバス通 を逸れて、よく知らない道を歩いてゐた。
 知つたつもりの土地でも、考へて見れば拾年も前の事である。この辺りは特に景観が変はつてゐて、先がよく解らない。俯き加減に上つて行くと、以前にもこんなふうに歩いた様な気がするし、さうではなかつた様な気もして来る。
 見上げると、黒黒い枝の絡み合つた合間に、幾らか欠けた黄色い月が出てゐる。雲脚が早く、時時空が濁つてすつきりしない。小高い山山が連なつた向こう側に、日が沈まずに残つてゐるらしい。山際の、伸ばせば届きさうなくらゐ低い所を、焼けただれた雲がざらざら流れている。
 辺りが非道く閑散として来て、風鈴の音がやけに耳に付いた。低い壁が長長と続いて、良く見ると、同じ様な家がだらだらと建つてゐる。同じ物干し竿が並んでゐて、円い硝子の風鈴が三つも四つもぶら下がってゐる。人の気配と云ふものがなくて、夕食時だと思はれるのに、乾いた熱風が透き通 った儘に吹き付けて来る。何だか背筋が寒くなつて、気分が悪くなった 。
 道路がぐらりと揺れて、足許が浮いた様な気がした。どうやら揺れてゐるのは自分だけの様である。慌てて手を額にやつたけれど、濡れてゐるだけで普段と変はらない。気を許した儘歩いてゐると、踏み外しさうになつた。段段と五感が遠くなつて、風鈴の音がふわりと浮かんでは消え、浮かんでは消えて、歩いても歩いても切りがない様に思はれた。
 熱い風が吹いてゐるのに、身体は冷え切つて仕舞つた。風鈴の音が聞こえてゐて、未だ何処かにぶら下がつてゐるのか、ただ耳に残つてゐるだけなのか、よく解らない。ふらふら歩いてゐる内に、何か柔らかい物を踏み付けた様な気がして、吃驚して飛び上がつた。背中に物凄い気配を感じて、振り返らずに走り出した。

 風向きが変はつて、川沿いの道になつた。遠賀川だと云ふ事は解つたが、何処へ行く道なのか解らない。温く湿つた風が首筋に絡み付いて大分気持ちがよくなつた。すつかり暗くなつてゐて、猫がみやあみやあ泣いてゐるのに混じつて人の声がする。ほつとして後ろ を見たら、痩せた目の大きい猫が、恰度膨らんでゐるところだつた。
「これは失敬、もう少しで終はるから」
 膨らみながら猫が云つた。さうしてすつかり化け猫になると、二本足で立ち上がり、何処からか巻莨を取り出して、私の方に差し出した。  黙つて二人で巻莨をくゆらせてゐると、車が四五台通り過ぎて行つて、何だか猫と一緒に一服してゐるのが恥づかしくなつた。猫の方はお構いなしで歩き始めたから、仕方なく後ろからついて行つた。時時猫が振り返つて、ちやんとついて来てゐるか心配してゐる。思ひ切つて追ひ付いて、肩を並べて歩き出したけれど、矢つ張り恥づかしくて仕様がない。
「東京では、どうですか」と猫が云つた。
「適当にやつてゐるよ」
「もう拾年も帰らないので心配しましたよ」
「心配とは、何故です」  猫について路地に這入ると、見慣れた光景になつて、すつかり気が楽になつた。
「猫と歩くのは初めてだから、人の目が気になつて仕様がない」
「猫と歩くとは、どう云ふ事です」
「君は猫だらう」
「馬鹿だなあ。猫が二本足で歩きますか」
 そんな事は解り切つてゐる。さう云われると、猫ぢやない様な気がして来る。人間が猫に化けてゐたのかも知れない。
「ぢやあ、君は誰です」と訊いた。
「私ですか」
「ええ」
「そんな事より、道に迷つてゐたのでせう。どうしてバス通に沿つて行かなかつたのです」
「沿つていかうと思つて、間違へたのだ」
「ふふふ。あんなふうに右や左に曲がつておいて、間違へたと云ふのは、どうもをかしい ですね」
「さうだつたか知ら」
「さうですよ。あの儘真つ直行けば、直に駅に着いてゐたのに」
 そんな筈はないと思って、不愉快になつた。
「何処に住んでゐるんだい」と訊いて見た。
「何某君の家に、居候をしてゐるんです」
「ほう。さう云へば、何某君が仔猫を二匹貰つて来た事があつた」
「それは拾年前の事ですよ」 「恰度、引つ越す前の頃だな。皆で見に行つたのを覚えてゐるよ」
「さうでした」
「騒いでゐる内に、一匹から引つ掻かれた」
「さうです、さうです」
「引つ越した後で、一匹死んで仕舞つたと聞いた」
「何かに潰されたんです」
 黙つてゐた。
 化け猫は浮かない顔をしてゐる。 巻莨をぽいと捨てて、
「何分、昔の事ですから」と云つたつ切り、黙つて仕舞つた。
 駅前の商店街に近付いて、不意に道が明るくなつた。ぽつりぽつりと、街頭に照らされた所だけ雨が降ってゐる。何某君が向こうから歩いて来るのが見えた。
「何某先生ですね」
「いや、違ふだらう。明日にならないと帰らないと云つてゐた」
「予定が早く済んだんぢやないでせうか」
 段段と、何某君が距離を縮めて来る。こちらに気が付くと、明るい街灯の下で、片付かない顔をした儘立ち止まつてゐる。私に踏ん付けられて、殺されて仕舞つた仔猫と一緒にゐるのだから、困惑するのも無理はない。                 

三日目

 郷里の道場で剣道を教へてゐる友達が、私の家に遊びに来た。近頃ははやらないさうだが、私は剣道が好きである。高校の体育で二年間剣道をやつた事があるが、小学生の頃に少し道場に通 つてゐた所為で、スポーツは概して不得手だつたにも拘らず、剣道は案外上手な方であつた。
「嘉穂君も、気を大きく持てば、もつと強くなつただらうね」
「どう云ふ事だい」
「自信を持つてゐればと云ふ事さ」
「自信はあつた筈だよ」と私は首を傾げた。
「君は勝てると思つたら物凄いけれど、さうでないと弱腰になる」と相手が云ふ。
 さうだつたかも知れない。何しろ、相手の次の動きを見定める事ができなかつた。自分のペースに持ち込めば楽に勝負できたけれど、さうでないと動きが止まつて仕舞ふ。
「間合ひを計れなかった」と云った。
「それぢやあ、面白くなかつただらう」
 そんな事はないと思つたけれど、黙つてゐた。
「君は剣道が面白いと云ふけれど、何が面白かつたのかい」と訊くので、
「正座して黙想するのが楽しかつた」と云つたら、相手が笑ひ出した。
 稽古の前に、正座黙想をする。目を半眼に開いて雑念を振り払ふのだが、さう云へば、夏になると蚊があちらこちらに飛び交つて、それ処ぢやなかつた。少しでも身体を動かすと、先生に竹刀でぱちんとやられるから、黙つて恰好な餌食になるのを我慢してゐなくてはならない。 「立て続けに胴を二本取られたことがあつたなあ」
「覚えてゐない」と云ったけれど、そんな事もあつた様な気がする。
 その日の夜、夢の中で暴漢に襲はれた。何人ゐたのか思ひ出せないけれど、時代劇の悪役の様な姿で、拾数人はゐたに違ひない。恰度腰に真剣を差してゐたので、思ひ切つて抜いて、ばさりばさりと切り始めた。自信を持つて刀を握つてゐたら、忽ちの内に死体の堆い山ができてゐて、最後の一人もばつさりと切つて仕舞ひ、目が覚めた。
 後から考へると、後味が悪くて仕様がない。せめて峰打ちにしておけば良かつたと、自分の非情な仕打を悔やんだ。