月の哲学        (1993)           

支度

 僕は家でだらだら過ごすのが好きだから、出来るだけ気分良くぼんやりしていられる様に努力する。夏休みはその絶好の機会であり、今年こそ怠惰で楽しいひとときを過ごそうと企んでいる訳だが、これがなかなかに難しいのである。
 休みになった当初は周りがふわふわしていた。飲まれない様にしっかりと呼吸をしていると、じわじわと居ても立ってもいられない気持ちになった。我慢してじっと煙草をふかしていると、今迄の記憶が閑かな幻の様に思われて、だんだんと床の中に沈み込んで行く。気が付くと眠っていた。だらだらと幾つもの夢を見続けて、その癖一つとしてはっきりと思い出せるものがない。
 夏休みに入って暫らくの間は、何もしていないと思うだけで充分に楽しい。無益な事に時間を費やして、し振りの優越感に浸る。時刻表を眺め、愛読書を読み返し、おいしいお酒を買いに出掛け、お気に入りのお惣菜を各種揃えて、大根を下ろして蕎麦をゆでて、そう云う事に恐ろしく時間を掛けている。
 しかし覚めて仕舞って、何もしなくても良いと云う事に気が付くと、身体がだるくて息苦しくて何も出来なくなる。何も出来ないけれど、何かしたい様な気がする。しかし面 倒臭くて自分で起き上がれない。時々振り返って何か起こらないかな、と考えたりする。
 怠惰な時を楽しく過ごすには、刺激の弱い変事に限るだろう。何か起こるのを待っていても拉致のない事だから、何かしなくてはならない。些細でありふれた音の乱舞に耳を澄ませていると、外には新しい風が吹いている様な気がして来る。
 独りでぼんやりしていると、だんだん世の中で起きている出来事が疑わしく想える様になる。そう云う時に誰かがやって来て、ビールかウィスキーかなどと云う選択を迫られると、もうどちらも疑わしく思えて、日本酒以外は飲みたくないなどと我儘を云いたくなる。しかし元来僕は臆病であるらしい。気が引けて、黙って優柔不断になっている。宙に浮いた時間をどうにも捕まえられなくて、 こうにも足掻こうにも、もうそう云う気が起きないのである。
 逆に疲れていたりいらいらしていたりすると、臆病である暇がなくなって、遠慮なく思い切った手を打ったり、却って冷静に哲学的考察に耽ったり出来る。研究の一番忙しい時には、思い切って上野動物園に行って仕舞った。上野動物園自体は刺激的でも何でもないけれど、参加もしていない研究活動の打ち上げに、誘われてもいないのに突然お邪魔したりするのは、忙しかったからであり、臆病である暇がなかった故の勇気の現れである。
 こうして考えてみると、世界のひっくり返る様な事件は、忙しい時に起きるに限る。今は静かにしていたいから、何が起こるにしろ人を惑わす様なものであってはならない。
 化け猫から電話で絵を見に行こうと誘われた時、僕は一瞬の内にそう云う事を考えて、返答に窮したのである。退屈し掛けていたのだから、誘われるのは嬉しい。化け猫でなければ大歓迎である。しかし化け猫は困る。すれ違った人の顔を窺いながら歩くのは厭だ。僕は元来臆病なのだから仕方がない。
「行かないのだったら独りで行くから、無理しなくていいですよ」
「そう云う訳ではない」
「夏休みなのだから、忙しいでしょうし」
「いや、予定は入っていない」
「今迄忙しかった様ですし、ゆっくりしていたいのでしょう」
「そう云う訳ではない。案外退屈している」
「まあ、いいです」
「何がだ」
「ええ、だから」
「兎に角考えてみる」
「明日ですよ。だからいいんです」
「君ねえ。僕はゆっくり考えて判断したいんだよ。少し位待っても良かろう。後で掛け直 すから」
「はあ」
「君は何時寝るんだい」
「そうですね」
「十二時迄には決めるから」
「どうも困りますね」
「困っているのは僕だよ」
「はあ」
「君が猫だからさ」
「猫がどうしたんです」
「猫は困るだろう」
「だから、猫がどうなさったんです」
「どうも判らないね」
「三越美術館の受付の前にいますから」
「何だって」
「新宿の三越新館です」
「ああ、行けたら行く」

 時間を聞いていなかったので、結局会館十時に間に合うように支度をした。        

 

カミオの美術展

 カミオの美術展をやっていたので、早目に研究を切り上げて足を運んだ。
 館内は未だ梅雨が明けていなかった。べたべたした絵が絡み付いてきて、脳髄にへばり付くような気持ちがした。見回すと難しい顔があちらこちらに集まっていて、時々だぶだぶとうねり歩く。何だか床までねばねばする。
 寝不足気味で頭が重たかった。それで却って、こんな面倒臭い事を思い付いたのだろう。最早帰りたいという気持ちも失せて仕舞っている。
 私は腕を組んだり解いたりしていた。濡れた手を伸ばしていると、さっぱりしたようなじれったいような生温い気持ちがした。ぼんやりと眺めながら、気が付いてみると、知らない顔が何か云いたそうにこちらを窺っていた。
 一歩ずつ気配が近づいて来る。
 額に嵌ったガラスの向こうに、人影が映っている。
 何でもないような顔をしようと努力した。ずっと疲れていたらしい。肩に掛かった荷物は果 てしなく重かったし、足の骨は固くて、筋肉はだるかった。
「これはどうでしょう」
 何を云っているのか判らなかった。
「貴方に気に入られるとは心外ですね」と声は続いた。
「そりゃ、貴方がどう思おうと勝手ですがね。本当の事を云うと、私の方ではこれが一番気に入ったんです。しかしですね。貴方と私が、こうして同じ絵の前で、一緒に立ち止まっていると云うのは、知っている人から見れば随分可笑しな光景でしょうね」
「そうですか」
 返事はしたものの、人違いだと思う。
「そうは思いませんか」
「まあ、こういう絵なら判りますよ」
 シャツの背中がべらりと剥がれて、何だか気持ちが悪かった。さっきから思い出そうとしているのだけれど、誰だか判らない。気に入らないから目を反らしている。見たって判らないような気がする。
「どういう風に判るのです」
「さあ。美しいものは美しいのですから」
 急に辺りが騒がしくなった気がして視線をずらした。いやに嬉しそうな顔が目に入って
「絵の美しさなどと云うものはありません」と云い切った。
「そうですね」と知らずに呟いて仕舞った。冷たいものが背筋を辿って流れ落ちていった。
「でも、美しい絵と云うものは現にあるのですから」
「いえいえ。美しい絵と云うものもないのですよ。あるのは心の動きだけです。感動するから美しいと云えるのです」
「だから、美しい絵を見て、誰もが美しいと云うのでしょう」
「それじゃあ、見ている人がいなかったとしたら、この絵は美しいと云えますか。例えばですね。開けたら爆発するような箱にこの絵を仕舞ったら、貴方の云う美しい絵はどうなるのでしょう。美しいと云えますか」
「そうですね。云えませんね」
「絵が独りでに美しいのだったら、人間は要りませんね」
「そうですね」
「昨日美しかった絵が、今日も美しいとは限らないでしょう」
「そうですね」
「いやあ」と上機嫌に笑い出した。「しかし、貴方も気に入ったとは。何という偶然でしょう」
「そうでしょうか」
「相当な作品ですね」
「不思議ですね」
「いえいえ。カミオの美術展があると聞いたときから、可笑しいなとは思っていましたから」     

 

月の哲学

 黒板の陽に当たったところに、地球と月と太陽らしい図形が描かれていた。地球が太陽の光を少しだけ遮っていて、月はその分少しだけ欠けて見える。黒板の少年はこれが月の満ち欠けの原因だと説明した。
 先生が笑った。「おい、お前らはこんなことも忘れたんか」
 みんな面白そうな顔をしている。しかし誰一人として前に出て訂正しようとする者はいなかった。みんな判っていて云わないのか。それとも考えていないのか。判り切ったことだから云わないのか。
 判り切っている、と僕は思った。黒板の少年は月食と取り違えているのだ。
「こんなことは滅多にないんやないかなあ」と先生は黒板を見てうなっている。「石井は面 白いこと考えるなあ」
 僕は叫び出しそうになっていた。それは月食や。小学生でもそのくらい知ってるんや。
「石井哲学は奥が深いな」
 みんな笑い出した。僕は笑えない。判り切っているのか。考えようとしていないのか。黒板の石井も笑っている。わざと間違えた訳ではあるまい。
「ああ、先生も判らなくなって仕舞ったやんか」
 何だか妙に静まり返っているような気持ちがした。でもみんなは笑っている。
「石井、お前のせいやぞ」
 僕には判らなかった。だいたい、こんなところにこうして座っている自分を、どう判断したら良いのか判らない。馬鹿な奴らだと思った。そうして何故だか石井の姿が気になった。彼が席に戻った後も目を離すことが出来ない。石井には石井の哲学があるのかも知れないような気がしてきて、何だか落ち着かなかった。
 石井は勉強が出来る癖に、髪の毛を染めていた。どこか納得のいかないことばかりだと思う。僕はゆっくりと首の向きを変え、しきりに降っている雨を眺めるような振りをした。
 やっぱり落ち着けなかった。
 月が満ち欠けするのは何故なのか。
 独りになってから考えようと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

円形地帯                    (1994/2/1)     

 駅舎を抜けると、ぽかりと穴が開いた様に広がっていて、先へ先へと伸びていた。慌てて歩き出したのだけれど、何処へ行ってもふわふわしていて、何だか落ち着かない気持ちがする。入り組んだコンクリートの隙間には、思った通 り、階段が密やかに蹲っている。降りて行くと、小さな踊り場の正面に、絡み合ったバスの路線図が見える。
 私は階段をその侭下って、停留所がぽつぽつと生えたロータリーに出た。人もちらほらいて、奥にはバスが小さく固まっていた。雲が切れ、空き缶 の縁がちらりと搖れる。ロータリーはバス専用で、バスが来なければ子供の遊び場になるらしい。通 りを担いだコンクリートが、奥の方から迫り上がってきて、ロータリーをぐるりと括っていた。高い処を、車がひっきりなしに走っていて、それが間違った事の様に思えてきた。
 歩き掛けてから、私は息を飲んだ。想像と違って、停留所があった筈の処には、水色のベンチしか置いてなかった。小さくても重量 感のある、ベンチが一つ。そこだけぽかりと開いていて、少し離れた右と左に、食い違った停留所が二つある。どちらでも良い様な気がするし、そういう訳にも行かないと思う。
 約束は夕方で、未だ大分時間があった。用事はないけれど、道草はしたくない。どういうつもりで、朝から家を出て来たのか、思い出す事が出来ない。だから乗り間違えたら引き返すくらいの余裕はあった。先に来たバスに乗って仕舞い、それから善後策を考えても良い様に思った。
 重苦しい風が吹き抜けていく。帰る頃には雨が降っていそうだ。ぼくぼくした雲が、膨らんだり縮んだりする。細い植木が、滲んだ様に宙に浮かんで見える。冷えてざらざらしているのに、重い上着が一度に被さってきて、濡れた嫌な気持ちがする。
 私は水色のベンチに座って、新しい煙草に火を点けた。

「邪魔だから引っこ抜いたんだ」とベンチが云った。「足元に穴が開いているだろう」
 見ると、バス停のあった処に、丸い穴が残っていた。
「誰が抜いたんだい」
「植木屋だよ」
 私は笑い出したくなるのを堪えた。背筋に冷たいものが流れて、身体を震わせて我慢した。
「中にシラモアの木が生えてるだろう」とベンチは続けた。「東京じゃ珍しいけれど、あれが珍しくない処もあるのさ」
「成程ね」と私は云った。
「特に目立っちゃいないけど、毎日見てて飽きないんだな」
 うん、それは素敵だね、と感心して見せる。ベンチの表情は解らかった。
「後ろにコーヒー屋があるだろう」
 うん。でもベンチはコーヒーなんか飲むのかい。
「とても良い席があるんだ。植木屋はね、毎朝そこに座って眠気を覚ますんだ」
「ふうん。毎日来るのかい」  ベンチは少し黙っていた。それから、
「当然じゃないか」と困った様に云う。「そう云う植木屋じゃなきゃ、シラモアの木なんか植える訳ないよ」
 私は考える。植木屋は自分で木を選ぶのだろうか。
「あの水色の特等席でさ」と云ってから、ベンチは少し声を潜めた。「見てるんだよ。自分の木がちゃんとなってるかってね」
「ちゃんとなってるって」
「伸び具合いだとか、枝ぶりとかさ。虫とか風とかに弱いし。吹き込むと、風が溜るだろう。ビル風って云うのかな。」
「うん、ビル風だ」
「だから毎日、バス停を引っこ抜いて行くんだ」
「毎日かい」
 ベンチは直ぐには答えなかった。

 私は溜め息を一気に吐き出す仕草をして、辺りを窺った。小さな女の子が、離れた処からこちらを見つめていた。私の声が聞こえたのかも知れなかった。気が付くと、他のベンチはほとんど塞がっている。ここにはバス停がないけれど、誰も座らないとは限らない。
「毎日取っていっちゃうのかい」と静かに訊いた。「だったら、毎日元通りにする人もいるんだね」
「そうさ」とベンチが答えた。
「でも、朝早くならバス停があるんだろう。それを引っこ抜いていくんだよね」
「そうだよ。でも、昨日は寝忘したから」
「一昨日はあったのかい」
「見てないよ。だけど、そんなんじゃ迷惑だろう」
 ベンチは心配そうに云った。

 重いベンチが、水色のペンキに塗り潰されたベンチがあって、駆け寄ってきた女の子がちょこんと座る。そうして怯えた風に私を見つめると、急に眼を反らして叫び出す。
「おかあさん、こっち、来てよ、こっち」
 私はベンチから離れると、最後の一本に火を点けた。
 時間は充分に残っている。バスがぐるりとやってきて、一つ向こうの、左側のバス停で停車する。誰も乗ろうとしない。運転手が降りてきて、こちらの方へと近付いてくる。
「火を貰えますかな」と運転手が難しそうに云った。
「マッチしかないのです」と私も難しそうに答えた。
「へええ。マッチですか」
 そう云って滑らかな手付で擦ってから、ゆたりと構えてぷかぷか吸い出した。元のバスの方へ歩き出してから、暫らく立ち止まっていた。 「ここのバス停はどうなったんですか」と私は訊いた。
「ああ、鈴見台行きのやつね。本数が増えたから、駅の南口に変わったんですよ」
 小さな女の子が怪訝そうにこちらを見上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大地震                  (1993)

 郷里から東京に向かう途中で、ぐらりぐらりと車両が搖れ始めて、私は皆と一緒に外へと避難した。そうして線路沿いに歩いていると、ざらざらと歩く音に混じって、非道い非道いと騒ぎだす声が聞こえた。地鳴りは止んだけれど、何時復た揺れ出すか判らないと考えると、私は心配になった。その内に、騒ぎが急ぎ足に去って行くので、私たちだけが取り残される様な、厭な気持ちがした。伸び上がって見ると、長い列が先の方まで続いていて、ずるずると引きずりながら蠢いている。
「前の関東大震災よりも非道い」と云う者がいた。
「皆震源の方に歩いているけれど、どうするつもりなんだろう」と別の者が続けた。
 彼らを見ていると、二人とも俯いて歩くのを止めようとしない。そんな事を云っていても仕方がないのだと思うと、私は何だか悲しくなった。
「予報は本当だった」と叫ぶと、辺り構わず泣き出した者があった。私も泣きたい気持ちになったけれど、そうもしていられないと考え直して、鞄から携帯ラジオを取り出した。周りにいた人人が騒いでいる連中を制してくれて、私は張り詰めた閑けさの中で息を凝らした。
「何も聞こえないんだ」と私は云った。顔に火が張り付いた気持ちがした。誰も彼もやれやれと真面 に私の顔を見ているから、悔しくて仕方がなかった。見張られている様で,逃げようにも逃げられない。すると恰度、
「少し黙ってくれないか」と怒鳴った者がいたので、却って落ち着かなくなるじゃないかといらいらした。私はその声のする方に逃げようと思ったけれど、他にもそうしたい者が大勢いるらしくて、近づく事も出来なかった。黒い雲が立ち込めて、こちらにやって来た。隣で若い女が俯いて、泣きじゃくっていた。私は皆と歩調を合わせて歩くのに耐え切れなくなった。男たちが私に遠慮する様にして近付いて来るので、先にどんどん歩いて振り返って見ると、女が泣くのを止めて周りに突っ掛かっているのが見えた。
 そうして辺りが翳ってきた。段段と閑かになって、仕舞いには皆騒ぎ疲れたのか黙黙と歩いていた。小さな駅を幾つも通 り過ぎて、先頭が何処まで歩くつもりなのか見当も付かなかった。時計を見ると、電車が急停車した時からずっと止まっているらしい。誰も時間の事なんか気にしていなかった。世界中の時計が止まって仕舞って、それでも暗くなったり明るくなったりする昊を想像して、私はどうしたら良いのか判らなくなった。
 真っ黒な雲が棚引いている。分厚く重なった山丘の切れ目に、沈み掛かった太陽が黄色くぼやけている。男の声が爆弾だと叫んだ。山の低い方に雲が固まって、きのこの様に沸き上がっているのに気が付いた。
 途端に悲鳴が上がった。子供らが凄い勢いで泣き騒いだ。辺りが騒然として、誰も彼もが好い加減な事を云い出したから、段々と馬鹿馬鹿しくなってきた。灰とアルコールの臭いが漂って、無性に腹が立ってきた。
 やがて小さな橋を渡った。川へ飛び込む者がいた。
 線路は緩やかにカーヴして、引っ張られて慰められる様な気持ちがする。行く先には山が立ちはだかっていた。もう随分と暗くなって、足にあわせて何となく歩いている自分に、我慢が出来なくなってきた。
 首筋に微かな声を聞いた様な気がして、見ると、若い女が息を切らしている。先に隣で泣きじゃくっていた女である。見間違いではないかと思うのだが、私をじっと見ている様で気味が悪かった。知らん顔をして歩いていると、一緒に何処までも尾いて来るつもりらしい。知った顔の様な気もするけれど、どうしても思い出せない。気が付くと、女は私の歩調に合わせて歩いている。
「東京はどうなってるんでしょうねえ」と、女が云い出した。
「未だ危ないよ」と私が答えた。
「火事なんでしょう」と女が云う。
「予報は本当だったのねえ」
「予報の事は知らないけれど」
「あら、皆そう云っているわ」
「誰が言い出したのか判りゃしない」
「でも、未だ信じられないの」
 そう云って女が私の手を取ったから、もう何も話せないような気持ちがした。振り解けば良いのだけれど、そうする事が恥ずかしくてとても出来そうにない。これからいったい何処迄歩くのだろうかと心配になった。
 黒い雲がだらだら流れているのが見えた。もう大分深けているらしい。足元が見えなくなって、踏み外しそうになる。そうすると、雲は暗闇よりも黒いと云う事になる。閑まり返って、周りが段段と散らばっていく。女がゆっくり歩こうとするから、あまり遅くならない様に手を引っ張ってやる。自然と力が抜けてきて、女の息遣いが気にならなくなった。そうする内に、これから考えなければならない事が、山程あることに気がついた。
 小さな駅を通り過ぎると、線路は二股に分かれていた。私たちが先に行く人を見失っていると、
「左を行くと大きな鉄橋があって、人は渡れないんですよ」と云う声がある。
「親切にどうも」と私が云うと、
「しばらく、来る人に伝えて貰えますか。すぐに戻りますから」と暗闇の中へ、溶けて消えて仕舞った。
「本当だと思う」と女が云った。
「たぶん戻ってこないね」
「左の方に行ってみない」
 私は驚いたけれど、そう云う女を可愛いと思った。しかし本当に鉄橋があったら、余り面 白くない事に違いないと考えたりした。
「その前に線路から逃げ出さなければ駄目だ」と私が云った。電信柱が柔らかに揺れているのに気が付いた。
「どうして」
「この儘歩いてみても仕方がないよ。線路は何処までも続いていて、何時までも線路の儘なんだから」
 私は女の手をぎゅうと握った。
「どうするの」
「先ず線路の事を忘れよう。それから」
「それからどうするの」
「線路を辿ってみても、結局何処迄も続いているんだよ」
「電車が走り出すかも知れないわ」
「混んでて乗れやしないよ」
「じゃあ、どうするの」
「考えるんだよ。これから」
「ふうん」
 私は少し間を置いてから、
「線路がないと歩けない訳じゃない」と答えた。
 それから長い間、雑木林の泣く声を聞いていたような気がする。
 私は女の手を離さなくては立っていられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蚕糸の森(未完)

 東高円寺近くの裏通りを歩いていると、吸い込まれて出られなくなる事がある。頭のはっきりしているときは尚更で、行きたいと思う方向には道が付いていないし、変な風に曲がりくねっていて、戸惑う事も少なくない。
 さっきから歩いても歩いても、似たような家ばかり並んでいて、気になって仕方がない。造りの細かい所はそれぞれ違っているけれど、壁の色や窓の付き方や玄関の具合いが皆同じである。揃って俯いていて、時々首を傾げて澄ましている。ひと昔前だったら、ちょっと素敵な家並だったのかも知れない。なんだかとても上品そうな顔付きに見える 。
 ちょうど垣根の黒枝がはみ出して翳っているところに、小さな腰掛けが据えてあった。随分前から放ってある様で、座る部分が少し朽ちているけれど、脚はしっかりしている。その証拠に、向こうから来るときに猫が跳び降りるのを見た。高い塀の向こうからするりと駆け降りて、腰掛けの上で呼吸を一つ溜めると、次の瞬間には消えて仕舞っていて、しなやかにカーヴを描いて向いの塀を越えて行ったのを想像した。風が吹き込んで、追い抜いて行く音が耳に残った。
 少しだけのつもりで腰を掛けて一服している内に、どんどん過ぎて行って仕舞った。無闇に同じ時ばかり過ごした様に思う。吸い込んで、暮れかけて、歩き出して愈愈暗くなってくると、風がゆるくなって肌寒くなるような気持ちがした。歩いているのは時間を埋めるためだけではないか知ら、などとは思わぬ ように苦心しながら足を運んだ。蚕糸の森の公園が、今すぐにでも見えてくるような気がしている。
 「そっちじゃありませんよ」
 振り向くと猫がいる。いつぞやの化け猫だ。
 「どうしたのです。仕事はいいんですか」
 そんな事を訊かれても困る。こちらにはこちらの事情がある。猫の知った事じゃない。
 それよりも、猫は何某君の猫であるのが気になり始めた。
 「何某君は元気かい」
 「お元気の様です。今日は東京見物に出かけました。小坊さんと一緒ですよ」
 「猫を抱えて電車に乗って。大丈夫だったかな」
 「猫なんかいませんでしたよ」
 自分が猫だと云うのが判っていないのか知ら。いやいや若しかすると、化け猫は猫とは違うと云いたいのかも知れない。しかし人間様から見れば化け猫は猫である。
 「猫なんだよ」
 猫は首を傾げている。

 「どうも遅くなって」などと云いつつ、蚕糸の森のプール機械管理室に入ると、
 「お疲れさまです」と猫が澄ましている。
 「いったいどういう事なの」
 「未だ話してない事があったんですよ」
 「ふうん」
 猫が自分のお茶を入れている。灰皿を持ち出して、紙巻をふかりふかりと始めた。
 「子供がね、生まれたんですよ」
 「はあ」
 「未だ見てないんですがね」
 「へえ、そんな物ですか」
 「そりゃあ、そう云う物でしょう」
 「相手はどんな人なんです」
 「盛りがつくと云いますね」といきなり変なことを云う。「しかしつくと云うのは可笑しいですね。本当は憑かれると云うべきでしょう」  何だか気に入らないから、雑誌でも開いて眺めていると、「逆洗してきますよ」などと云い出すから驚いた。
 「電話番お願いします」
 猫の癖に失礼なことを云うと思ったけれど、相手は化け猫である。部屋から出て行くのを見届けると、隣の椅子を引き寄せて足をのびのびと伸ばした。それからひとつ考えてみる。
 化け猫とは云えども、化けていないときは普通の猫である。それどころか、普通 以上に痩せていて目はやたらに大きくて、喧嘩はあまり強そうではない。猫の社会の事はよく知らないから判らないのだけれど、痩せっぽっちの化けない化け猫が、盛りのついたライバル達の中で、どう云う戦いを経て雌猫の気を引くことが出来たのだか想像してみる。矢張り化けたままの方が、圧倒的に分が良さそうである。しかし化けた侭では、雌猫が猫だと認知できるのか知ら。雌猫が相手にしなければ、喧嘩に加わる資格を失う様にも思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

声明             (   ?  )

 丸くない月が出ていたのだけれど、何処が欠けているのだかよく判らない。その内にかぶさって見えなくなって仕舞い、何だかそわそわして眠れそうになかった。
 散歩に出掛けようとすると、帳場にいた顔のはっきりしない男が私に何か囁いた。通 りに出てから気が付いたのだが、その時私は何か返事をしたらしい。何処か遠くの方で、誰かが言葉を返すのを聞いた風にも思われる。二つの言葉は辻褄が合っていたようであり、考えてみると、男は私に向かって私にも聞き取れないような声で話し掛けたのだから、返事をできる者は私以外にはいないのである。次第にはっきりし出して、思えば私の声に間違いなかった。
 考え続けると噛み合わなくなりそうだった。ぼんやりしているつもりになって、暗闇の中へと急いだ。歩いていることも考えないようにして歩いた。
 月も星も隠れていたような気がする。歩いていると、通りに沿って街灯が点いたり消えたりしていた。まるでそこいらを行ったり来たりしているように見える。だんだんと目が慣れてきて、鈍く光った街灯が私を追い越して行き、どんどん先へと誘いかけているような気がし出した。
 街灯の周りに、はっきりと雨が降っているのが見えた。考えたくはなかったけれど、私のTシャツはちっとも濡れていない。気味が悪くなって、引き返そうかと思ったりした。しかし後ろを振り向くのが恐いから、暫らくそのまま歩いていた。
 上り坂になっても真っ直に続いていて、山の切れ目に吸い込まれた先は判らない。冷たい風に顔を撫でられて、不意にびっくりして立ち竦むと、街灯が明るいまま静まり返って仕舞っている。振り返ってみても人の気配はなかった。
 何処か遠くで大勢の声が沸き上がるのを感じた。歩き出そうとすると足ががくがくして、うまく前に進めない。
  山の腹から地声の合唱が続いていた。私は出来るだけ深く息を吸い込んで、それから一気に吐き出した。吐き出す音を聞きながら、しっかりしようと自分に言い聞かせた。
 一歩一歩踏み締めながら歩いて行く内に、声のする方に吸い寄せられる自分に気が付いた。逃げ出そうにも最早逃げれないと思った。足が云うことを聞かないのだから、結局仕方がないことなのだと考えた。
 通りから離れて、川に沿って畔道を段々に登って行った。果てには何も見えないけれど、一つに重なった地声が一回り大きくなり、自分の先を誰かが歩いているような気がし出した。足はもう直って仕舞っていて軽過ぎる位 で、先の方のちょっと沈んだ所に明りが広がっているのが見えた。もう少しゆっくり歩こうと思った。
 突然耳鳴りがして、身体が傾いた。何かにつまずいたのだ。もの凄い勢いで転がっていった。その内にふわっと浮いたかと思うと、腰の辺りを強く打ったらしい。何処かに落ちて叩きつけられたみたいだった。兎に角起き上がってみると、隣に誰かいるような気配がして、もう強張ったまま動けなくなった。
 赤い口が開いたり閉じたりしてるのが見えていた。眼が二つ、私の方を向いて目瞬きを繰り返している。暗闇の中で、白い腕がふわりと浮ぶと、いきなり頬を殴られて、身体中の毛が逆立つのが判った。一面 の声が染み通って、次第に私を包み込んでいった。 「聞こえないのか」と云ったらしい。
 耳鳴りが止んで、たくさんの声が沸き上がっていく。果てしなく長い橋の上から、大河の流れを辿っているような気持ちになる。単調なリズムに不思議な抑揚が混じって、暗闇の静寂の中を分厚く響き渡ると、やがてだんだんと辺りに飲み込まれていった。厚みのある地声が、徐々に全身を圧迫していく。次から次へと新しい声が沸き上がっては、暗闇に覆いかぶさって、少しづつ私を閉じ込めていくつもりらしい。
「まさか頭の上から来るとは思わなかったな」と赤い口が云った。「おい、聞こえるか」
「聞こえる」と誰かが答えた。
 赤い口は安心したらしい。ずかずか近付いて来ると、どういう訳か、私の身体を抱えて行って仕舞った。
 経を唱える僧たちが、明るく映し出されて、やがて闇の中に沈んでいった。ロの余韻が残る中、声の豊かさに照らし出されて、闇は一層深みを増したように思われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文体練習〈香を焚く

1  

 突き出されるように駅舎を抜けると、ぽかりと開けていて先へと伸びていた。様子が判らないからどこを見回してもふわふわしていて、何だか落ち着かない気持ちがした。
 ポケットから地図を取り出して眺めてみた。ぼろぼろの紙切れに、細かい線やら何やらが書き込んであって、どっちがどっちを向いているのか判別 がつかない。とにかく一服して、それから考えるつもりになった。電話ボックスにもたれ掛かって、煙草の先に火を点けて、ぼんやりしている内に、急に手先が熱くなるような気持ちがした。
「わあ」
 気がつくと、燃え上がった紙切れが宙を舞い、そうして閑かに地面へ落ちていった。踏み消してから、自然と溜息が出た。
 駐車場を囲むようにバスが走っていくから、ここはバス専用のロータリーらしい。奥の方から、通 りを担いだコンクリートが迫り上がって、ロータリーをぐるりと括っている。高いところでひっきりなしに車の走る音がする。ここは思ったより静かだ。
「お客さん、旅行者?」
 見ると、日焼けした長い顔の男が立っていた。
「火、もらえる?」
「あ、ええ」頷いて、ライターを渡す。「タクシーですか?」
「乗るんだったら、向こうに回らないと」長い顔は、駅の方を指さして言った。
「どこかこの辺で、安く泊まれるところ、ないですか」と訊いた。
「安いところだったら、駅の周りだねえ」長い顔は、ますます顔を長くした。このままでは、ますますどうして良いのか判らなくなってしまいそうだった。
 山まで乗せて貰ったら、どのくらい時間を稼げるだろう。
「山の方にはないんでしょうか」と訊いてみた。
「山って、藤山のこと? あそこは駄目だねえ」
「駄目ですか」
「温泉だから、高いんだよねえ。それに態度悪いよ。この間会社で宴会したときなんか、こっちが貧乏だって判った途端、一度出した料理引っ込めちゃうんだからねえ」
「ははあ」
「あんた旅行者でしょう。山から車で十分位で、良い旅館知ってるよ。昔の城跡の近くでねえ。あそこはここの者だけが知ってる穴場でさ」
「そうですか」私は新しい煙草に火を点けた。
「旅行かい」
「いや、用事があって来たんです。けれど行き先の書いた手紙を忘れてきたんで」
 今、燃やしてしまったとは、何となく言わなかった。
「結婚式?」
「はあ、いえ、葬式です」でたらめである。
 長い顔は目を剥いた。「友だちのかい」
「まさか。知らない人なんです。向こうはこっちを知っているらしいんですけど」
「それじゃあ、仕方ないねえ」
「どうでも良かったんです。折角だからぶらぶらしようと思って」 「私はねえ、ちょうど一月前に親父を亡くしたんですよ」
 そう言って、長い顔が首を傾けて笑った。

 車で三十分。旅館は入り口が小さい割には、案外と大きな造りだった。長い顔が受付けまでついてくると、そのまま奥に入っていった。私はどうしたら良いのか判らなくなって、そのままじっと立っていた。
 受付けには若い娘さんが座っていて、こちらの様子を窺っているようだ。私はとにかくにこにこして近付いていくと、 「あなた、騙されたんですよ」
「えっ」
「どうせ、こっちの方が安いって口説かれたんでしょう」
「いやあ」口説かれた覚えはない。
「あの人が勝手にやってるんだから。今の内に逃げた方が良いかも知れませんわ」
「親切ですね」と私が言うと、驚いたような顔をして、それっきり黙ってしまった。
 調子が狂ってしまって、ますますどうしたら良いのか判らない。取敢えず一服しようと思う。灰皿に一番近い椅子に腰掛けて、煙草とライターを並べてみる。そうして一本に火を点けて、ゆっくりと呼吸した。やたらに長いような気持ちがする。
 気が付くと。閑かな雨音に包み込まれていて、もう逃げ出せないと思った。ライターが残り少なくなってきたので、旅館のマッチを擦ってみる。柔らかい音を立てて燃え上がり、しばらく気持ちの良い香りが広がった。
「用事があって来たんですけれど、用事がなくなってしまったんです」試しに言ってみた。
「あら」と返事がある。
「すみません。灰皿を取り替えて貰えませんか」
 娘がつつっと近付いてきて、新しい灰皿と取り替えようとする。
「随分お吸いになるんですね」
「いつか止めようと思っているんですが。なかなかうまく行かない」
「小さい灰皿持ってきましょうか」
「う〜む。名案かも知れません」
 何だか可笑しかった。たった今、煙に雨の匂いが染み込んで、嫌な気持ちになったところだった。
「お部屋、ご案内しましょうか」
「ええ。でも、ここでくつろいでも構わないのでしょう」言ってから、どうも拙かったかな、と思い直して慌てた。 「あの、部屋は空いているのでしょうか」
「ええ、お茶いれましょう」
「お願いします。宜しかったら、話し相手になって貰えませんか」
 娘は目を丸くして微笑んでいる。迷惑がっているのかも知れないけれど、まあいいや、という気持ちになって、「落ち着いたところですね」と続けてみた。
「ええ、本当は良いところなんですよ」
「どういうことです」
「前に、お客さんが首を吊っちゃったんです」
 娘の目がさらに丸くなったような気がして、背中が急に寒くなった。
「それが、眺めの良い素敵なお部屋だったんですけど。勿体ないから、そのまま使っている んです」

 折角の眺めも、雨が降っては台無しである。娘さんが、ここの料理は高くて不味いから、と言われるままに素泊まりにしたので、夕食を食べに出なくてはならない。鬱陶しくて、立ち上がる気力もなかったけれど、お腹は空いていて煙草が不味い。
 見上げると、天井に縄が吊るしてあるような気持ちになる。からかわれたのだろうと思うのだけど、気分が乗らないから、だんだんその気になってくる。
 コツコツと戸を叩く音がして救われた。
「はい」
「私です」
 外には、娘さんが立っていた。
「どうも、こんにちは」
「どうも」
「夕食はどうなさいますか」
「ええ。今から出掛けようと思っていたのですが。あなたは忙しいんですか」
 丸い目の玉がくるくるっと回って、「本当は忙しいんですけど」
「どこか美味しいところを案内して貰えると有り難いんですが」
「良いけど、他の人には内緒にして下さいね」
「有り難う」
「ちょっと高いかも知れないけれど、良いかしら」
 おやおや。
「でも、とても美味しいんです」
「じゃあ、そこにしましょう。近いんですか?」
「いえ、さっきのタクシーで行きませんか。雨も降ってることだから」
 おやおや。
「ついでだから、ただで乗せてくれるって言うんです」
「ああ、それは良いですね」
「私、支度して来ます」
「じゃあ、玄関のところで待ってますから」
「先に乗ってて良いんですよ」
「はあ」
「あの人、本当は親切な人なんです」
「そうなんですか」
 返事の代わりに目配せをして、辺りを見回してから駆けていく。後ろ姿を見送っていると、何だか無闇に可笑しくなってきて、訳が判らない不気味な気持ちになってくる。

「食べ切れないかも」
「あら、残しちゃえば良いのよ」
「そりゃ、そうだけど」と、何だか眠くなってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

化け猫(未完・仮題)

○月×日△曜日
朝来曇後雨

 化け猫がやって来てから、もう四日目になる。化け猫と云うのは、何某君の家で居候していた猫のことである。
 化け猫と雖も、ふだんは白い毛のふさりふさり柔らかそうな、普通一般にあるありふれた猫である。もとは飼い猫なので、首に小さな鈴を付けている。初めにそれと気付かなかったのは、鈴が古くて鳴らないからである。首に巻いてある焦げ茶の革ひもにぶら下がっていて、ひもが随分と太いせいか、猫も鈴も余計に小さく見える。
 化け猫でないときの化け猫は、小さいくせに生意気で、そこが可愛い。化け猫でないにも拘わらず化け猫と云うのは、名前が化け猫であるからである。しかし滅多に化けない。化けない化け猫と云うのは変なので、別 の名前を考えたらどうかと小山君が云うので、
「それは可笑しい。猫が化けて化け猫になるなんて、君は聞いたことがあるかい」と云ってやった。
 小山君は首を傾げたまま、黙っている。
「化け猫が化けて、普通一般の猫になるのだとしたら理屈に合う。あいつは化けていないようでいて、ちゃんと立派に化けているんだ」
「しかし、化け猫と云うからには、もとは普通の猫だったんでしょう」
「それはそうだけれど、今はもう普通の猫ではない。なのに普通の猫の顔をしているのは、やっぱり化けているからだ」
 小山君はなんだか片付かない顔をした侭、口を尖らせている。段々雲行が怪しくなりそうだったので、拠っておいて台所に酒の残りを探しに行った。

「化け猫は化け猫だろうが、名前が化け猫と云うのは変じゃないか」
「化け猫って云うのは貴重な存在なんだ。だからわざわざ名前にしたんだ」
「でも、わざわざ猫に化けているのだろう。それを化け猫呼ばわりするのは、ちょっと可哀相じゃないか」
「うーむ、そうかも知れない」
「猫だって、いや、化け猫だって、一所懸命怪しまれないように化けているんだ」
「そうか、俺が悪かった」
「しかし、猫はどこに行ったんだい。今日は見ていないようだけれど」
「朝出掛けて行った。直に戻る」
「気を悪くしてるんじゃないか」
「化け猫化け猫云うからさ」
「かも知れない」

 夜も随分更けた頃、猫が帰って来た。最初に小山君が気が付いて「猫!」と叫ぶと、猫は急に膨らんで、すっかり化け猫になって仕舞った。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有羽君(仮題)     


 今年も有羽君から、帰省するので一緒に帰らないかと誘はれた。私の郷里は石川県の金沢であり、有羽君の田舎は福岡県にある。私はいつも、上越新幹線と特別 急行かがやきで帰ることにしてゐるし、一年に一度くらゐしか帰らないので、一緒に帰省するのは神業に等しい。
 ただし、中学三年生になるまでなら、私は有羽君と同じ、博多駅から電車で三十分くらゐの、小さな住宅地に住んでゐた。当時私が住んでゐた小さな二階建ては、今は全然見知らぬ 他人の家になつてゐる。私の持ち家ではなく、私の両親の家だつたのだから、私が口惜しがる事もないのだが、懐かしい我が家だと思つたら、知らないカアテンが掛かつてゐたりするのだらう。あまり考へたくない。私の郷里とは云へないのである。
 金沢も郷里とは思ひたくない。観光地だと云ふところが、特に気に喰は(わ)ない。「田舎は何処ですか」と聞かれて、いちいち説明するのも下らないから、適当に答へておくと、「春の兼六園は格別 ですね」などと同意を求められる事がある。観光客と云ふものは、大概が観光に命を掛けてゐる。私なんぞは二回ほど、ぼんやり園内を歩き回つた事があるくらゐで、大体昼間の兼六園は知らないのである。仕方がないので「金沢はあまり好きではないのです」と逃げておく。大概そこで話は終は(わ)りになるが、あまりいい気はしない。
 さうして考へてみると、生まれてしばらくの間、私は東京の町田市に住んでゐた。もちろん私自身はそんなことなど覚えてゐないから、私の郷里と云ふことにはならないだらう。他に本籍地と云ふものもある。私の本籍は富山県の富山市内にある。
 話が大分逸れてしまつた。有羽君が一緒に帰らうと誘つてゐるのである。帰るのは有羽君であつて、私ではない。本当は、私に福岡へ旅する様に勧めてゐるのであつて、私が未だに福岡に未練を残してゐるものと勘違ひしてゐるのだ。
  どちらにしろ、誘は(わ)れてもう六年になる。あんまり断つてばかりゐると、十年来の友情にひびが這入る。それに来年こそは、真面 目に、学生の本分に励もうと思ってゐる。たぶん来年は帰れまい。いやいや、来年は旅行できまい。もともと出不精で腰が重いから、今年も来年も行かないとなると、もう二度と行く気も起こらないだらう。
 さう云ふ訳で、有羽君には「今年は行く」と返事しておいた。いよいよ旅行する事に決まった訳だが、旅行するにはお金と時間が要る。お金のほうは、生活費の残りで何とか間に合ひさうである。向かうに着けば、有羽君のお宅にお世話になるのだから、必要なのは交通 費だけで、他にはあまり要らないであらう。
 期日の方は、困つたことになつてしまつた。有羽君は八月八日の土曜日から、一週間の間でないと困ると云ふ。恰度私の方も、その週には用事があつて、大事な人と会ふ約束でゐるので、さうさう容易くは譲れない。とは云へ、有羽君のゐない有羽君の御宅へお邪魔しても、向かうは迷惑だらうし、私も寛げない。一度は諦めやうかと思つたが、滅多にない機会なので、私の方の用事は、無理を承知で二、三日ずらして貰って、十一日から十三日までの三日間だけ行く事に決めた。その前後の十日と十四日に、大事な人と会ふ算段である。
 お金の方は大丈夫と云つたが、よくよく時刻表で確かめてみると、全部で四万円を上回つて仕舞ふ。精々三万円を超すくらゐであらうと考へてゐたので、面 倒臭いことだけれど、出発の日の朝に、大学で学生割引に必要な証明書を貰つて来る事にした。さうしていよいよ、明後日には出発である。


 昨日は大事な約束の相手に、色色と云ひ訳を重ねて、強引に許しを貰つた許りである。思ひ出す度に、何となく気掛かりなのだが、何時までも拘泥ってゐても仕方がない、兎に角今はきつぱり忘れやうと思ひ、本当はすつきりと忘れてしまつた。
 さうして朝早くから起き出して、支度をしてゐると、眠くて眠くて頭がふらふらする。立つて歩くだけで、体がふらふらしてゐる。慣れない時間に起きた上に、急に緊張が解けた所為なのだけれど、これでは馬場から理工学部まで歩いて行けるか知ら。心配してゐる間も、視界は朦朧としていく許りなので、有羽君に電話して、決めてゐた時間を一時間遅らせて貰つた。
 心配事が失くなつて、水を浴びて調子を整へ(え)ると、大分体が軽くなつてゐる。もう眠くとも何ともなくなつてゐるから、吃驚した。一時間早くにだつて、間に合ひさうである。もう一度時間を戻して貰おうか、どうしやうか、考へてゐる内に、有羽君の方が余分な一時間の遣ひ途を考へてゐては、二重に申し訳ないと思つて、止す事にした。
 早めに大学に行つて、研究室を覗いて行く事に決め、昨日の晩に切手を貼つた封筒の束を、忘れずに鞄に仕舞ひ込んだ。残暑見舞いを兼ねた、大事な手紙である。さうして、準備が整ふ(う)と、煙草を買ひに近所の馴染みの店に寄つた。  灰切屋ドラツグと云ふのが、その店の名前である。ドラツグと云ふからには、勿論薬屋である。煙草を店内では売つてゐない。店の外に自動販売機が三台あつて、吸つた事もなければ、あんまり見た事もない煙草が、豊富に揃つてゐる。
 灰切屋と云ふのだから、元は煙草屋だつたのだらう。煙草はマイルドセブンのライトしか買はないと決めてゐるから、わざわざそんな処で買ふ必要もない。必要はないのだけれど、屡寄つて見ては、色色な煙草をじつくり眺め回したつひでに、自分のを買つてしまう。きつとここの煙草は特別 美味いに違ひない、と云ふ暗示にかかつてゐるのだ。反対に、侘しい自動販売機だと、煙草の味も侘びしくなるやうな気がする。
 煙草を止めたければ、煙草を切らしてはならないと云ふのを聞いた事がある。切らしてゐれば、それだけ後の一服が美味くなるだけで、煙草の味を更めて知るのには好都合である。それだけで止められる者は、始めから煙草の味を知らないのである。
 一度煙草の味を知つて仕舞ふと、もう煙草を切らす訳にはいかなくなる。切らすのは、自分の煙草への忠誠心を高めるやうなものだから、いつも買ひ置きに気を配らなくてはならない。一カートンくらゐは、家に蓄へて置かないと、いつまでたつても止める事は出来ないだらう。
 話が逸れてしまつたから、元へ戻さう。兎に角、煙草を五箱買ふと、次は学生割引の件である。その為には大学の事務所に行かなくてはならない。荷物を持つていくのだから、旅行はもう始まつてゐる。
 さて、大学に行つて見ると、一斉休暇とやらで、事務所が閉つてゐる。これではお金が不足するかもしれない。急に心配になつたので、早めに駅の窓口へ、切符の相談に行つた。
 どうすればいいだらうと窓口で尋ねてみると、心配しなくても良いと云ふ。北九州市か福岡市まで、三万四千円程で往復できる切符があると云ふ。さうとは知らなかつたと私が驚くと、今は恰度、さう云ふキヤンペーンの最中だと云ふ話である。
 矢つ張り早目早目に準備す可きだつたと後悔して、貰つたばかりの切符に鋏を入れて貰ふと、高田馬場から山手線に乗り込んだ。結果 的には学割でない方が安かったのだけれど、かう慌てていては心臓に良くない。折角の旅行なのだから、悠々と落ち着いてゐたい。今からでも遅くはないのだからと、空いた席に滑り込むやうに座ると、悠々と股を広げて、誰とはなしに威張ってみた。
 さうして繁繁と切符を眺めてゐると、面白い事に気がついた。一枚で特急券と乗車券を兼ねてゐるのだが、窓口で手続きをすると、指定席にも乗ることが出来る。どうやら寝台券にも化ける様だ。勿論、特急でも新幹線でも良い。今日の新幹線は込んでゐて、指定席が満席なのが残念である。
 しかしこんな面白い切符があるのだつたら、前以て買つておいて研究して置く可きだつた。東京から急行銀河に乗り込んで寝台列車を満喫し、京都で新幹線に乗り替へることだつて出来たかも知れない。


 東京駅に着いたのはお午過ぎで、待ち合はせの場所に急ぐと、有羽君は先にゐて待ってゐた。有羽君に会ふのも、一年と半年振りである。
「やあ、元気かい」
「相変はらずやな」
 有羽君はにやにや笑つてゐる。私が遅刻した事を云つてゐるのだ。今朝は目覚めが悪く、未だ充分の余裕があったにも拘わらず、わざわざ決めた時間を一時間遅らせて貰って、この始末である。腹が空いたので、新宿駅で蕎麦を食べたのが原因であらう。
 有羽君は目をくるくると回しながら「早く来過ぎて、お陰で時間を潰すのに苦労した」とへらへらしてゐる。
「君は何時来たの」
「三十分くらゐ前」
「それぢやあ、君の方が悪い。僕は十分ちよつとしか遅れなかつた。しかし君は、その二倍も間違つた時間に来ておいて、尚且つ時間に対する反省の色が見られない。約束には早く来れば良いものだと、褒めて掛かつている」
 有羽君はうんざりした顔をしてゐる。 「早目にホームにでやうか」と云ふと、てくてく歩き出したので、尾いていつた。
 博多行の新幹線は一時間に一本である。十三時七分発のひかりに乗るつもりだから、一時間弱の間、時間を潰さなくてはならない。その間に込み具合を確かめて、自由席に長い列が続いてゐたら、その後に続かうと云ふつもりでゐる。
「大した列ぢやない」と有羽君が云ふ。
 私もさう思つたので、近くのベンチで横柄に構へ、煙草をくゆらせてゐる事にした。その方が面 倒臭くなくていい。
 さうして見ると、自由席の列は一向に長くなりさうもなかつたが、弁当屋の前は込むばかりで、長蛇の列が出来てゐる。家族連れが多く、若者は少ないやうだ。四,五人のサラリーマン達が、何やら熱心に話し込んでいる。その内の一人は、片手に缶 ビールを持つたままで、お行儀が悪い。
「ビールが欲しいな」と私が云ふと、
「まだ早いんぢやないか」と有羽君が答へた。有羽君はお腹が空いてゐるらしい。両方の丸い目が、弁当屋の方をさまよつている。ロツク・ミユージシヤンのやうな派手なランニングの背中を丸めて、何だか野生児のやうである。
 私は煙草を吸つてゐる。新宿駅の蕎麦で、お腹は恰度いい具合である。有羽君が弁当を買おうと云つても、黙つてすましてゐるつもりだつた。
 しばらくさうしてゐると、漸くホームにひかりが這入つて来た。席を見つけて落ち着くと、矢つ張りお腹が空いてくるやうな気がする。
 弁当屋の列も短くなつてゐるので、「お腹が空いてゐるんぢやないか」訊いてみた。 「いや、空いてゐない」と云ふ有羽君は、車内の後ろの方を見てゐるやうだ。「さうか」と私が有羽君の視線の先を追ふと、山吹色のブラウスの女の子が座つてゐる。どうやらベンチにゐた時から、この子を見ていたらしい。
 十三時七分きつかりに、ひかり十七号が動き出した。このまま乗つてゐれば、十八時三十一分に小倉に着く。何しろ東海道新幹線に乗るのも、六年振りの事である。窓から見る風景も覚へてゐる訳ではないのだが、何だか懐かしい気分がする。電車は品川の辺りを抜け、新横浜へと向かつている。ひかり十七号は、新横浜を通 過して仕舞ひ、名古屋まで止まらずにひたすら走る。
 有羽君は薄つぺたい雑誌を読んでゐる。私はぼんやりと外を眺めてゐる。段々雲が立ち込めてきて、暗くなつた窓に小雨が降り掛かつてきてゐる。
「かうやつて眺めてゐると、銀河鉄道の夜を思い出すねえ」と云ふと、有羽君はもう読む所が失くなつたらしい。雑誌を片付けて、一緒に窓の外を眺めだした。
「晴れて欲しいね」
「九州は雨ぢやないか。台風が来てゐるのだから」
「ハレルヤ、晴れるや。君、銀河鉄道の夜は読んだのだらう」
 有羽君は黙つている。印刷工場で働いてゐると、本なんか読んでゐる暇は失くなるらしい。
 私もそれつきり黙つてしまつたので、後は各々眠るしかなかつた。


 小倉で降りると、すつかり忘れていた封筒の束を、北九州中央郵便局に出してきた。これでは考へてゐた期日には間に合はない。それは仕方がないけれど、(明日は九州へ出発します)と書いておいて、小倉の郵便局から出してゐては、大変に間抜けである。
 また蕎麦を食べてから、七時二六分発の快速列車荒尾行に乗る。乗ってからは、煙草を吸つてばかりゐた。
 後日の話になるが、束の中の一枚が、あて所に尋ねあたりませんと、私より先に東京の下宿に戻つてゐた。何だか不思議である。封筒は小倉から出したのだ。それから宛先の東京都中野区へ遙遙旅して、住所が見つからないから、差出人の世田谷へと送られたのである。何も間違ってはいない。しかし、どうも変である。
 例えばかう云ふ細工が出来る。
 宛先に架空の住所を書いて、差出人の所に本当の宛名を書く。宛先の住所は架空なのだから、当然、あて所に尋ねあたりませんと云ふ事になる。そこで、差出人の所へと送り返す事になる。その差出人が目的の相手なのだから、手紙は無事に着いたと云ふ事になる。
 これでは何のメリツトもない。しかし私はしつこく考へた。かう云ふのはだうだらう。差出人の住所に、海外にゐる友達のそれを書くのである。けれど、六十円切手で届けてくれるか知ら。向かうで精算と云ふ事になつたら恥ずかしいし、第一相手に申し訳ない。
 後で有羽君に話してみたら、ラヴレターに使へるかも知れない、と云ふ。今時、異性から来た手紙を咎めるやうな家があるか知ら。だつたら始めから差出人を、架空の女性名にすればいい、と私が云ふと、いつものやうに黙つてしまつた。どちらにしろ字がうまくなくちやいけない。私のやうな乱暴な字だつたら、一目瞭然ばれてしまうだらう。
 電車は遠賀川を渡つて、もう直に赤間駅である。赤間駅を過ぎると、目的地の東郷駅に着く。雨は降っていない。大方台風が私を避けたのだらう。
 東郷駅では有羽君の小母さんが、わざわざ車で迎へ(え)に来てゐた。御挨拶をして、漸く有羽君の御宅に辿り着くと、お寿司が取つてあると云ふ。小倉で蕎麦を食べたので、未だお腹が恰度いい具合でゐる。有羽君はもう空腹だと云ふ。  有羽君の御宅には、離れがある。そちらに行くつもりでゐたら、御座敷の方に通 すやうだ。お客様が来てゐるらしい。お寿司を取ったと云ふ訳が判った。
 さうして知らないお客と一緒に、御馳走の前で寛いでゐると、急に部屋が真っ暗になつてしまつた。私はもう訳が判らなくなつて、ただ目の前の遺取りを聞いてゐると、こんなことは初めてらしい。そのうち皆ゐなくなつて、ブレーカーはここだとか、漏電に違いないとか云つて騒いでゐる。
 しばらくして有羽君がやって来て「電気会社に電話したけれど、お盆で急には来れないから、蝋燭で我慢してくれ」と云ふ。こちらは構はない。次第に皆集まって来て、有羽君の妹さんがビールでお酌を始めると、漸く落ち着いて来た。知らないうちにお腹がすいてゐる。お陰で、おいしくお寿司を頂く事が出来た。