色のない図書館 (1991)
コインランドリーの乾燥機に二週間分の衣類をぶち込んだ帰り道、僕は自分の本棚に並べてある様々な本について考えていた。
半年ほど前に僕は「ブックカヴァーとエクリチュール」という短い文章を記したのだが(註・一九九一年十二月現在には、この文章は発表されていない)、本屋さんの店員が親切にも一冊一冊に付けてくれるあのブックカヴァーを、いずれは全ての本から取り去ることをほのめかして文章を締めくくっていたように思う。あれから僕の本棚は随分と様変わりし、大半の本は本来の姿をあらわに並べてある。「既製の秩序の破壊」である。
とは言え、本の背は新たに出版社を表すことになり、新しい秩序が既に形成されてしまったことは明白である。依然として僕の本棚は一定の秩序を保っているのである。
一冊の本の個性を妨げるこの秩序は、少なくとも僕にとって、その本の価値とは全く無関係に思える。例えばハヤカワ文庫である。ハヤカワSF文庫というだけで読まれる機会の少ない本が、僕の知っているだけでも沢山あるのだ。G.ベンフォードの「アレフの彼方」やヴォネガットの「猫のゆりかご」などはSFファンならずとも是非とも読んで欲しい傑作である。それらの本はSFなどという枠を越えた、本質的に優れた価値を持っているのだ。実際アメリカでは、ヴォネガット作品はSFを越えた文学として受け入れられている。しかし所詮ハヤカワ文庫であることも否定できない事実だ。
岩波文庫だって逆の意味で同様の被害を被っていると言えよう。一つの作品を越えた何らかの威厳が備わっていることは確かだ。作品の立場から言えば、なんと馬鹿げた話であろうか。
とすると、表紙のデザインも必要悪なものとなってこよう。良くマッチしたデザインがある分、あまりそぐわないデザインもある。本の内容に係わらず、そんなもので手にするかしないかを決めてしまうのが現実である。
そう考えていくうちに、僕が思い当たったのはミシェル・フーコー(仏、一九二九〜八四)がどこかで言っていた言葉だ。正確には思い出せないが、要するに文章とその著者との間に、どうして何らかの関連性を見出さなくてはならないのかという疑問である。作品の著者とは、読者に何らかの安心をもたらす為に存在するに過ぎないのではないか。僕が読んでいるものはいったい著者の人生の一部分なのか、それとも一個のテクストなのか、それとも‥‥‥。
今や本の装丁もその著者も無用となってしまった。そうすると残るのは、本の題名と真っ白な背表紙である。(じゃあ、題名はどう扱えば良いのだろう。これもやっぱり不要な秩序なんだろうか?)
僕の頭の中には、真っ白い本の並んだ図書館が浮かび上がる。一切の記号が剥奪され、白い無地の表紙をまとった本、本、本。白塗りの壁の中で、無言の本棚たちを巡って僕は彷徨っている。霊感だけを頼りに一冊一冊引き抜いては中身を確かめつつ歩く。静寂が辺りを支配し、僕の足音だけが僕の内側に響いてくる。本は何も語りかけて来ない。
やがて僕は、鉛筆を持ってその白い背中に薄く警告を書き込み始める。「傑作短編集?」、「平凡なファンタジー。二度と手にするな」、「疲れたときに読むべき作品」等々。「本を汚されては困ります」
僕がふり返ると、山吹色のセーターを着た小柄な女の子が困った顔をして立っていた。
「ああ、すみません」と僕は即座に謝った。
「早く消さないと。誰かに見られたら出入り禁止になってしまいますよ」
彼女はポケットから消しゴムを取り出した。まるでいつも用意しているかのようだった。
「なんでだめなんですか」僕は訊いてみた。
「さあ、でも急がないと」
僕は本の背に書き込んだ警告を一つ一つ丁寧に消し始めた。消しながら僕は彼女に話し掛けた。
「白だと汚れやすいと思うんだけど、どの本もほんとに真っ白ですね」
ふと見れば、彼女は泣きそうになっていた。
「どうしたんですか。急がなくっちゃいけないんだったら、ちょっと手伝ってくれませんか」と僕は頼んでみた。
「だって、手伝ってはいけないんです」と彼女はおびえた顔で言った。 「手伝ったら私も出て行かなくてはならないんです。誰だってそんなわけにはいかないわ」
僕は初めて恐怖を覚えた。どういうことなのかさっぱり分からなかったが、女の子の様子から、僕は何かとてもまずいことをしているようだった。
けれども僕はほとんどの書き込みを消し終えていて、もう二、三冊だけで最後だった。
「ほら、もうすぐです」
女の子はそこにはいなかった。鉛筆も消しゴムも消えていた。本棚には白い本が、壁からはいつの間にか窓も扉も消え失せ、白い空間の中に僕は独り立っていた。
街のざわめきが耳を通り過ぎていく。壁の向こうには、歩く人たちや車や向かいの小さな床屋が透けて見えてくる。
僕は独りだった。
僕は図書館から追放されたのだ。
僕は街に戻る扉を失ったのだ。
じゃあ、僕はいったいどこにいるのだろう。僕は赤いソファーに横になっていた。目の前には開けっ放しの扉があった。それは図書室に続く扉だった。
「気分はどうですか」
背広の似合わない若い男が、側の机に座っていた。
「ああ」
「驚きましたよ」
「はあ」
「きれいに消えてよかったですね」と若い男はにやっと笑って続けた。
「貧血気味なんですか。彼女困ってましたよ」
僕はソファーから起き上がった。まだふらふらしていた。辺りを見回すと、やっぱり公民館だった。町の人たちがゆるやかに移動しているのが眼に入ってきた。見慣れた光景だった。あの白い図書室を除けば。
「どうも迷惑かけてすみませんでした」と僕は立ち上がった。
若い男はうなずいた。僕がそのまま歩いて行こうとすると、彼はそれを押し留めた。「ちょっと待って下さい。館長が来ますから」仕方がないので僕はソファーに座り込むと人々の流れを見守った。彼らのほとんどは、閲覧室のある二階の方へ急いでいた。残りは雑誌コーナーに向かう者が大半で、問題の白い図書室に入っていく人はちらりほらりといるだけだった。
「忙しいところをすみません」
僕は驚いて声のした方を見た。
「いえ、別に忙しくなんかないです」
「ああ、そうですか。先程はうちの職員が迷惑をかけまして」
「ははあ」
「最近本にいたずらする者が増えましてね。厳しく監視するように言い付けておいたのですが、いやなに、跡が残らなければ一向に構わんのですよ」
「ああ、そうなんですか」
どうやら彼がここの館長らしかった。
「あの図書室は新しく造り直したものなんで、もともとあった本は別館に移したんです」
そう言って彼は僕の隣に座り込んだ。頭の大きい中年の男だった。茶色の作業着のような服の下に背広が透けて見えていた。
「あの部屋の本は全部私の父が書いたものなんです」と彼は申し訳なさそうな表情を作った。「全部題名が付いていない。一応本の体裁はとっていますが、なにぶん自費出版だし、あのように表紙は無地の真っ白けなんですよ」
僕はうなずいて彼の横顔を眺めた。彼はまっすぐ図書室の方を見つめていた。
「なにか気に入ったものはありましたか」
「あの体の冷たい渡り鳥の話に、なんとなく心魅かれるものがありました」と僕は答えた。「空の天気の具合の描写 がなんとも言えず良かったです」
彼はしばらく黙っていた。さっきの若い男が白い図書室の中に消えていくのが見えた。代わりに山吹色の女の子が出て来て、こちらに気付くと、困った風にどこかへ駆けだして行った。
「あの娘にはきつく言い過ぎたようですね。でも、前に一度、ボールペンでいたずら書きする者がいまして、大変困ったんです」
「それでどうしたんですか」
「もう一度、製本し直してもらっているんです。結局誰のいたずらなのかも分からずじまいでした」
僕は図書室の左前にある受付の上の時計を眺めていた。黄色の秒針ははっきり見えたけれど、他の針はぼやけて良く見えなかった。
「お願いがあるんですが」
と中年の館長は、僕の方に向き直って言った。
「渡り鳥の物語に、題を付けて欲しいんです」
「題ですか」
「それから表紙に絵を描いてほしいのです」
僕は何とも答えられず黙ってしまった。
「気に入ってくれた人に題を付けてもらっては、その本を別館に移してやっているんです。そうでないと本がかわいそうだ。私の仕事は、あの白い本たちにちゃんとした本の仲間入りをさせてやることなんです」
僕はしばらく黙っていた。それから「いいですよ」と言った。
僕たちは白い図書室に入っていく男の子を眺めていた。青い野球帽をかぶったその男の子は、図書室に入ったきりなかなか出て来なかった。
僕はどんな絵を描いてやろうか考え始めた。
冷たい体の渡り鳥。
ガラス張りの天国。
缶コーヒーの空き缶と、その中にいた‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥トゥルルルルルルル トゥルルルルルルル トゥルルル‥‥‥
いつの間にか、アパートにたどり着いてしまっていた。
電話の音は、自分の部屋の中から聞こえてくるようだった。と思った瞬間に、僕はあわてて部屋に駆け込み、白い図書室とはさよならをしたわけである。