コメント:私がコメントするのもおこがましいのですが、古川先生のご配慮により、藤女子大学の古塚先生の論文を掲載させていただくことができました。自閉症児に接するうえでの基本的な考え方をあるときは我々素人に分かりやすくあるときは心理学的側面から述べられています。


「障害児のこころの発達を支援する」
古塚 孝 先生
藤女子大学 人間生活学部 保育学科



 今、ノーマライゼーション・インクリュージョンが叫ばれ、障害児にとっても、みんなと一緒に生活を共にすることがハッピーの基盤ということが認められるようになってきました。障害児も、我々と同じく、社会の一構成員としてその一翼を担っていることがこころの安定・安心を生むことを意味します。集団生活を営むには、その構成員同士のこころの交流・コミュニケーションがいつもなされ、「味方と一緒にいる」という保証があることが非常に重要です。普通、人は「こころを持った存在」とされています。相手のこころを理解すること、自分のこころが相手に理解されていること、分かり合えることが社会の構成員の資格要件であります。その為には、彼らが我々と同型性を持った存在であることが前提となります。
 ところが、異常・障害という概念はこの同型性を認めないのです。「異常者は理解できない、危険だ、排除しよう」が世間の常識です。ノーマライゼーション思想は、それゆえ、「障害の軽減よりも社会性を!」というスローガンの下で、集団の中でうまくやっていける能力を身につけることを選択したのです。言い換えれば、こころの交流ができるように障害児を発達させることが療育の課題となります。そのために我々はどんな理論と哲学を持ち、どんな具体的なレベルでの養育法を持たなければならないかを考えていきます。

胎児期乳幼児期の障害(脳の損傷)は「異常」として現れるのではなく、「発達の遅れ」として生じる。
大人になってからの脳損傷は特定の心理機能の壊れとして出現しますが、胎児・乳幼児期の脳損傷はまだ当該の心理機能を担う神経回路が構築されていない為に壊れとして出現しません。Heacanはこのことを「大人の言語領の損傷は失語症をもたらすが、子どものその領域の損傷はmutism(無言症)を出現させる」と述べています。つまり、言語を獲得していない子どもの言語領損傷はその機能の発達が困難になるのです。言い換えれば、脳の損傷は発達の遅れとして表現されるわけです。言い換えれば、機能しないところから出発し機能するようにならせるのです。

遅れを取り戻す試みは、普通の子育てをより熱心に行うことで良い。
親が障害を告知され絶望するのは、我が子が自分と同型的な部分を持たない(自分と似ていない)と考えることに原因があります。「異常児は理解できない」と考えると親は「自分はどうしたら良いかが分からない」という結論しか出せなくなります。しかし、異常ではなく、発達の遅れとして捉えるのなら、希望をもって、対応することができるはずです。発達する環境(反応的で豊富な環境)に子どもをどっぷり浸からせることから始めるので良いはずです。とりわけ、子どもを取り巻く人々との豊富なやりとり環境が重要です。そのためには、親がまず第一に、「どんな子どもも学習能力を持っている、どんな子どもも私が反応し続けていれば学習するようになる」という信念を持つことです。第二に「どんな子どもも、人の十倍、二十倍繰り返すと分かるようになる.一を聞いて十を知るを天才と言うが,この子は百を聞いて一しか知り得ないが一を知る、すなわち学習するのだ」と信じることも必要です。この信念を持つことで、極度にゆっくり発達する子どもを、親はじっくりと待つことができるのです。発達は発達する当人がその気でなければ成立しません。馬を水飲み場に連れていくことはできるが水を飲ませることは出来ないのです。とすれば我々のすることができることは、「いつでも使いたいと思うと使える状態にしたものが豊富にあるように準備することと、反応しようと待ちかまえている親・大人・仲間が子どもの周囲にいること」だけです。
 以上の哲学のもとで、藤女子大学人間生活学部保育学科附属子ども発達相談室を私たちは開設しました。そこで、自閉症を初めとする発達障害児のセラピーを始めました。その場で障害児を子細に観察すると、なぜ、今、普通の子育てが困難なのかが見えてきたように思えます。

普通の子育てが出来ているとはどんな状況なのでしょうか?
 まず、第一に、自分が困ったときに親はいつでも助けてくれるなど、相互に「呼べば応える」親子関係ができていること。第二に、思い通りに動く身体、健全な感覚機構、感情の発露、そして、初めは他者に、その後、自己による感情制御。第三に、好奇心・探索心を持ち、世界についての知識を貯め込むことにハッピーを感じていること。第四に、子どもは集団の構成員としての自信と自己効力感を持ち、自分を支えてくれる良い人が世の中には多く存在しているという信念をもっていること。第五に未来に希望を持ち、正義は勝ち、努力は実り、何だって自分で独りでやれば出来るという信念を持つことなどが考えられます。このように考えると障害児はこのような信念は持つことは不可能だと決めつけがちです。事実、1970、80年代の研究では、障害児の親子関係は過保護か拒否的で、障害児は自信が無く自己効力感を持てず努力をしないですぐに諦め、依存的で、好奇心探索心が無いとされてきました。しかし、私たちは、これらが主観的な信念であることから、障害児といえども可能であると考えています。
 私たちは、自信と自己効力感の獲得は、子どもの成功体験と失敗体験の乗り越えの累積によって生じることは明白です。そこで、私たちが注目していることは、成功体験も失敗を乗り越える体験も、親が陰で支え、手伝うことで生じることです。例えば、子どもが歩行できるようになるときのように、最初は親に支えられ障害物を取り除いてもらった場面で生じ、その後、「自分で、自分で」と、自力で歩きたいと努力をして成功することです。そして次に、自力で歩くことで、その環境に関する知識を累積し、自分の身体を基準(準拠枠)にして知識を整理整頓することができるようになる。そして、歩けるかどうか自信が無い時には、親の判断を求めたり、「help」を求めたりできるようになるのです。
その為に、私たちは出来るだけ早期に以下の三点を重点的に調整する治療教育を行ってきました。
・親子関係の調整
・世界についての知識を増やすこと,言語・道具を含む「文化」を子どもに伝えること
・こころの交流を可能にする種々の心理システムを形成する(やり取りを教える、意図・意志・目標・手 段・視覚的情報)

.親子関係の調整という課題
ヒトという種は、生理的早産と言われる。赤ちゃんは産まれてすぐに、独り立ちできないのである。子宮の外には居るが、その内に居るのと同じぐらいに保護された環境で生き続けねばならない。この環境を維持するのに、親は相当な負担を担わねばならない。そして、また独り立ちして適応するために、赤ちゃんは親を通じて、「もの」環境と「ひと」環境についての知識を獲得し、複雑な情報処理システムを獲得する必要がある。
私たちは、これらの獲得において親の役割が非常に大きいことに気づいた。通常の子育てでは「親はなくとも子は育つ」という格言にも言われるように、子どもが独りで文字通り成長するという実感を持つが、障害児の子育ての視点から普通の子育てをみると、「一緒にいる」状態で何気なくなされるやりとりが発達を促していることがよく分かる。親とのやりとり無くしては発達できないということなのである。ところが、障害児の子育てにおいては、このやりとりがうまくいかず、結果的に分離状態に陥り、環境剥奪・貧困環境をもたらすといえる。親はやりとりがうまく行かないことの原因が障害・異常のせいだと推論する。しかし、諦めるわけにはいかないのが子育てなのである。それゆえ、障害児を「できない子、諦めるしかない子」から「学習可能な子」という子ども観への移行を促進させる療育が必要となる。この移行は子どもが発達しているという実績を上げることによってなされる。

1.諦めは「こころの分離」を作る
障害児の親は「この子は学習し得ない」と諦め、子どもの発達を促進する働きかけが空しい無駄なことだと思いこむ。とりわけ、こころの交流をしたいという気持が失せる。この状態を私は、こころの分離と名付ける。こころの分離は、親の無表情、共感的反応の少なさ、積極的な働きかけの少なさ、子どもの一人遊びの多さ、「ダメ、ダメ」しか言わないという結果をもたらす。遊びを初めとするやりとりを始める権利と止める権利を親が全面的に持っていることを自覚しないので、親がやり取りをしたいという気持を十分に持っていても、子どもの側からの能動的働きかけをただ待っていることにもなります。この時、親は次の4つの態度を選択する。どれも子どもの発達を妨害するこころの分離をもたらすものとなる。

(1)「この子は障害があって可哀相である、私が全てをしてあげよう」と必死になる。先回り・お膳立ては子どもの自己決定権をうばい、「大きなお世話、迷惑」を生む。要求の少ない「良い子」を作る。
(2)「この子は障害がある。障害を克服するためには,私が主導権を握って次々と課題を、無理矢理でも、乗り越えさせねばならない」と頑張る。親の支配権絶対確保は、言いなりになる子、何でも許可を求める子、逃走する子、反逆する子をつくる。
(3)「 私は障害のことは何も知らない。何をやってもうまくいかない。専門家に任せよう」。放任は野生児を作る。言うことを聞かない子、自分勝手な子になる。
(4)「 私だけが何故こんなに不幸なのか? この子が私を不幸にする、私は被害者である。この子が居なければ私の幸せを追求できるのに」。子どもは邪魔な存在となる。しかし、親という仕事は退職することはできないので、無駄なあがきとなる。自分が邪魔な存在と認めた子はいじけた子になり、認めなかった子は非行に走る。

2.こころの分離はコミュニケーションを不可能にする
 私たちがその人とコミュニケーションする必要を感じるのは、彼が知らないことを自分が知っている時である。井戸端会議は、その意味で、個々人が知っている全ての情報を仲間同士で共有するための活動である。この原則は親子でも通用し、子どもに自分の持っている全ての情報を伝えないと(秘密を持つと)仲間・味方といえないのである。「親が聞く耳を持たない、子どもの働きかけに反応しない、生返事をする、うわの空でつき合う」、などの態度は、親子で情報を共有する気持を持っていないということで、物理的・空間時間的レベルで一緒に居ても(接近状態)、こころのレベルでは分離状態にあるといえる。そして分離状態が子どもをして不安と恐怖と金縛りをもたらす。「この子には分からないから、黙っていた」という態度も、子どもにとっては、親が味方か否かを心配することになるので注意を要する。
ところで、コミュニケーションは、相手が敵にならないように制御する方法でもある。言い換えれば、相手と自分が同じ人間で、同じように考え(同じ情報処理システムをもつので、何を考えているかが推論できる)、同じような感情を持ち、意志・意図を持っている仲間・味方だと信じ続けるための方法なのである。
分離・孤立の中では、発達は考えられない。ヒトという種は集団を作る動物であり集団構成員との親密な関係を基盤にして発達するのである。それにはまず自分を排他的に保護してくれる特定の対象を選択し、その対象が逃げないようにしなければならない。ヒトは「敵か味方か」を第一に考え、味方には接近し、敵には回避・逃走する種である。そして、味方とみなした対象と濃密なやり取りが無いと発達し得ない種なのである。ところが、分離・孤立とは、実は、敵の中に生まれでたと信じる赤ちゃんの行動でもある。障害児も周囲に存在する大人が味方か敵かを峻別しその振る舞いを変える能力を持っている。敵の前では殻の中に閉じこもり、自己をさらけ出すことをせず、自己を守ることに専念する。発達するとは、殻を破り今の自分を破壊することを含むため、敵の中で発達することはできない。それゆえ、セラピスト・援助者は、親もまた、自分が味方であることを子どもに信じてもらうことから始める。親が味方であることを本当に信じた子どもに対してのみ、怒る・叱るが教育的意味を持つことをこころに刻むべきである。愛を疑う子どもに対する怒りは敵からの攻撃と思われてしまうのは当然である。

3.環境としての母親・感度の良い母親
健常児といえども、生後一年までは<保護する親?保護される赤ちゃん>という関係しか成立し得ないことが現実である。心理システムの同型性をまだ発達させていない赤ちゃんに対して親は同型性を与えることは不可能であり、それ故、親は、同型性があると思いこみ、自己欺瞞しなければならない。
「この子は私の分身」と思いこむことを基盤にして、味方として反応し続ける親を演じ続けることが重要なのである。「私だったらこんな時、お腹が空いた、私だったらこんな時、眠い、私だったらこんな時、痛い、腹が立つ、嬉しい、悲しい、怒る、したい、したくない」と子どももそう思うだろうと信じ込み、反応し続けることが親の仕事である。親の働きかけに対して子どもが快表現をすることを頼りに、思いこみを継続させるのである。
 子どもの立場で言えば、お母さんは自分の気持ちとこころの内容は全てお見通しであると子どもは考えている。言わなくても伝わっていると信じてしまっている。そして、自分の現在の実力以上に「出来てしまう」こと、親が陰で支えて分かりやすくしていることにも気づかず、万能感・有能感・自己効力感を増大させる。一方、自分と親は融合状態にあるが故に自己の発見とそれと相補的な他者の発見はできない。
 しかし、万能感は獲得された後、壊される運命にある。万能感を持ち続けるだけでは子どもは発達し得ない。次第に子どもは感度の良い親の対応を当たり前と思い、もっと感度を上げるように要求し(我が儘な子)、反応・対応が遅れると「死んでしまえ」と怒り出すようになる。子どもは今すぐ原理で、お母さんは何でもお見通しなのにしてくれないとして、怒るのである。親が空気のような存在・無くてはならぬ存在であり続けることだけでは、子どもは自己と他者を発見し得ないのである。

4.限界・限度を見せる母(自分も一人の人間だ、神では無い)を教える)
 子どもの要求がきめ細かく洗練されるようになると親は、痒いところに手が届くように対応することは不可能になる。万能感を持つ子は、親も万能であることを当然として、究極の感受性を要求する。しかし、これは不可能である。「私にはわからない、出来ない、教えてくれなければ分からない」と悠々と対応することが大事になる。すなわち、ここでも普通の子育てという心構えが大事で、子どもと一緒に現状を打開するしか道は無い。その道とは、子どもの「自分でやる」部分を膨らませることと子どもと同盟関係に入ることである。しかし、それはそう簡単では無い。
親が分かってくれないことで、子どもは「イライラしている自分・欲求不満の自分」を発見すると同時に相補的な形で、必死に努力している母を発見するのである。そして、一方で、万能感は風船が破裂したように壊れ、親に依存しなければ生きていけない自分に気づくことになる。これが親への愛着を生み出す。子どもは「あなたが居ないと生きていけない、あなたの命令に忠実な下僕になります」という態度を突然示すのである。親はこの態度に健気さと愛情を感じ、<支配する親-非支配者としての子>という関係を背後に隠しつつ、子どもの自信を維持する努力の中で、子どもを王様として立てるのである。
子どもは愛を確信したら王様になり、愛を少し疑うと親に忠誠を誓う奴隷になり、give and takeを50%比率にして対等関係になると相手を気遣う者となる。そして、時に対抗的・矛盾的意図を持つ者として、時に共同的な意図を持つ者としての「他者」を発見することになる。頑張りすぎて限界を見せないように努力し続ける親の下では、「他者」を発見し得ないワガママな子になることに注目すべきである。
親は子どもの意図・意志を認め、できるだけ生かすような態度が必要であるが、この段階では、自分の意志と子どもの意志が競合することが多くなる。競合場面では親の方が引くと言う態度よりも、けんかもしながら折り合いを付ける、公平であることが重要である。競合しているという事実を伝えることで、「親の気持ちを考えさせる」ことになる。

5.愚図でのろまな母(以心伝心の関係は止め、ぶつかり合い、折り合いをつける関係への移行)
 子どもが「自分で、独りで」と言い出したら、自己決定権を子どもに付与する。私は次に愚図でのろまな親になることを提案する。愚図でどじな親を演じることで、子どもは保護されるものから保護するものへ変わるという体験をする。地位と役割の交代が繰り返されることで、子どもは保護するものの気持と保護されるものの気持の両方を同時的に経験することが可能になる。「相手の立場に立ってみる、自分の気持ちを察して欲しい」などが可能になる。そして又、他者が自分と違う「こころ」を持つことに気づくのである。言い換えれば、自分の意図・期待は「おかあさんなら伝えなくても分かる」のではなく、「きちんと伝えないと分からない」ということに気づき、真の意味での他者の発見を生み出すものとなる。そして、いつも相手を気遣い、何を考えているかを推測し続ける為にコミュニケーションが必要であることに気づくのである。親が機嫌の良いときは近づき、悪いときは逃げて他の大人と遊ぶことも出来るようになるし、困った時に「help」を言わなければならないことも理解出来るようになる。

.世界についての知識を増やすこと

1.心的世界の形成
ヒトという種は、現実世界よりも心的世界の方が重要だという信念をもっている。「頭の中で考えてから実行する」ことの方が「闇雲にやってみる」より人間的であるとする。実際に「何も考えないで現実の中でやってみる」ことでは「死んでしまう」ことになる。シミュレーションしてみて成功した方策だけを現実世界で実行する方が、自然淘汰の中で、生存できる確率を上げることができる。ヒトという種はこの戦略を用いることで進化に勝ってきたのである。やる前に、考え、推論し、失敗し、良い考えにたどり着くという心理システムを子どもは生得的に持っているとは言えない。子どもは、大人の援助によってこの心理システムを獲得・発達させるのである。実際、大人は、赤ちゃんがこのようなシステムを持っていると思いこんでいる。しかし、これは生後3,4年かけて形成されるものである。心的世界の構成要素は表象であり、表象は、視覚・聴覚・触覚・運動など単純知覚表象に始まり、共通感覚表象・言語表象を経て関係性表象・階層性表象(抽象概念など)と複雑化・多重化する。そしてそれを用いて知識を貯蔵するのである。また、表象を心の中で自由に操作し、心的世界を作り上げ、その中であたかも現実の中で行動しているように「考える」機能と構造を発達させねばならない。子どもは、当初、現実に囚われているが、徐々に現実から切り離されて心的世界は一人歩きし、おばけまでを考えることができるようにまでなる。ヒトと言う種は、適応的意味を、今すぐには、何ら持たない世界についての情報を「知識」として記憶する習性を持っている。この「ただ知ることのみで嬉しい」という習性を利用した心理システムを構築したとき、初めてヒトは人間になるのである。また、「遊び」とは、現実を単純化・抽象化して扱いやすく・繰り返ししやすくした「現実のシミュレーション」である。子どもは、遊びを通じて、心的世界の中で考えることを学んでいるのである。この心理システムの形成には、親の文化の伝道者として援助が不可欠であり、障害児には、とりわけ、よりきめ細かい援助が必要とされる。

2.課題解決場面を出来るだけ多く設定すること。
(1)課題解決まで努力を維持し続けることと、その後リラックスすること、<始まりと終わり>
 この中で、子どもは課題を与えられると緊張し課題解決の努力をしている間緊張を維持し注意を持続させ、課題解決が生じると緊張を低減させることを学習する。そして達成反応(木下1996、やったぜ反応)をするのである。緊張にメリハリをつけることは、障害児とりわけ、ADHD児には困難で、緊張しっぱなしか、ボヤンとしたままになる場合が多い。それゆえ、セラピーの中で、緊張の制御(親による他者制御)を子どもに教えることが重要課題になる。達成反応がまだ出てこない時には、「エンドマーク教示(やった、すごい、できたー)」を与えることで、「緊張低減のタイミング」を教えるのである。

(2) 答が一つしかない課題を設定すること、(手遊び、赤ちゃんの遊び)
 今使用している心理システムが解決できる課題を選択し、教材などを構造化しておくことが重要となる。構造化とは注意すべき刺激を突出させること(salience)とともに、非当該刺激の数を少なくし目立たないようにすることなどを意味する。また、ここでも反復が重要で、その中で、解決の手がかりとなる刺激の突出度を適度に変化させ、子どもが、構造化していない環境でも、応用できるようになることをめざすのである。現実世界では、たった一つの答のみが正解であるという状況はあまり無い。答がたった一つという体験は教科書の世界のみであると言える。

(3) 要求とは分離した、「世界を知る楽しみ」、「世界についての知識を他者と共有する楽しみ」を育てることが重要である。
 知識は孤立化した断片的エピソードとして貯蔵されるが、徐々に断片的知識は、相互に関係づけられ意味ネットワーク化しなければならない。ネットワーク化することで、検索が容易になり、連想がダイナミックなものに変換されるのである。ミンスキーは、レベル帯という用語を提起し、我々が意識している言語表象レベルの上下レベルに種々の経験と知識が連結し、この連結が言葉の意味を担っているとしている。それゆえ、言葉を教える前に、多くの断片的経験を蓄積することが重要となる。言語獲得は、名前とものとの単なるマッチングでは無い。

(4)子どもの喜びの表現を指標にしよう。
 何を教えるかを決定することに親は悩むことが多い。子どもの興味がはっきりしない障害児においてはなおさら困難と言える。とりあえず、私たちは、色々メニューを出すのは私たちの仕事だが、どれを選択するかは、子どもに任せることにした。すなわち、子どもが喜ぶことを繰り返すのである。
(a)初め、ある課題をやってみせ(モデリング)、子どもが興味深く見ている場合には、子どもにやらせてみるのである。子どもは最初自分の手足が思い通りに動かないし、道具を自由に使えないので当惑することになる。そこで、「難しいので諦めよう」と思う前に、分からないように手伝って解決し、「できた!」という喜び表現を引き出すようにする。そして、何度も繰り返す中で、徐々に手伝う量を減らし子どもの努力量を増やす。努力の量に比例して喜びの量が増えることに気づかせるのである。
(b)学習は「あー、そうか」と分かる段階で止めてしまうと身に付かない。子どもは「分かったことを繰り返す」ことに喜びを示すのである。この反復は「学習したこと、分かったことが使いものになる・努力とエネルギーを使わないでやれるように自動化習慣化する」するために不可欠なことなのである。子どもが喜ぶ限りつき合うという態度・姿勢が親には要求される。

(5) 学習成果を親と共有し、学習できたことを一緒に喜ぶ。やったぜ反応・達成反応
 学習したことを言葉で表し、親とコミュニケーションすることで、「頭の中で思考する推測する」材料になるように表象内容を変化させる。親と共有できる体験にする。他者と共有可能な意味ネットワークに変換すること、このことは重要で、これがあって始めて子どもは文明化される(親と同じ人間になる)のであり、コミュニケーションできる存在になるのである。そして子どもが示す「やったぜ反応」は、親の求めに応じることが出来て嬉しい」という反応なのである。自閉症児は、自分の興味・関心に従って、ものごとを追求する。他者の評価を受けない学習は野生児になるのである。

6) now print! 機能を駆使すること、
 親との一心同体を目指す子どもに対して親の評価基準を教える方法がこの機能である。子どもがこちらの考えとイメージの通りに課題に取り組んだとき、「それが重要!、それが勘所!」と伝えることがこの機能である。このことで、どのようにするとうまくいくかのアドバイスをすることができるようになる。即ち、親のものの見方・考え方、あらゆることはそのまま機械的に記憶するのでは無く、規則・ルールとして記憶し、記憶した規則を新しい場面に応用して現実に当てはめる(analysis and synthesis)というストラテジーを人は使っているということを、最終的には、子どもにおして、そのストラテジーを獲得するように要請するのである。

(7)自分で独りでやりたがる気持を大事にする。自分で工夫する、改善する、
課題解決経験が増えると、新しい場面で、自分独りで課題解決を願うようになる。独りでしたいことが出来たと思えると、子どもは自信を持つ。ここでも繰り返しが重要である。自信は反復練習することで獲得されるのである。例えば、ゴルフの練習においてはイメージ通りにボールを打てる技術を身につけることが要求される。一回ぐらい巧くやれても意味がない。練習の繰り返しの中で運動スキルの効率化に対応する神経回路変換を行い、諸感覚と運動との協力・協応の神経回路を形成し、それらが自動化するまで練習するのである。
 この段階では、主導権は子どもが持ち、親は子どもに要請されたことを手伝うのが良い。子どもは失敗する権利を持っている。どんな情報処理システムを用いてこの課題を行うかは子どもが個々に決定する。強制的な親は課題を解く為の情報処理システムを指定する。そうすると出来ないままで時間が過ぎるという状態になる。得意なものを伸ばす道しか無いのではないか! 一方で、この時期にしつけが始まる。しつけとは排便はトイレでするといったように自己の自由を社会の要請に合うように制限することを意味する。それゆえ、大事なのは、社会と折り合いをつけるための談合の仕方を子どもに教えることであると私は思う。出来ないと言って叱り、服従させるよりも自己の自由を最低限維持しながら社会の要請にも応えようとする態度が形成されることの方が重要なのである。

二つの心理システム(知覚-行動直結システムVS.意味を中核とした再構成(又は表象)システム)
 現在、発達心理学では、機械的記憶(まるごと暗記)とまるごと再現のシステムから、再構成システムへの移行の重要性が論じられている。すなわち、乳児は厳密で正確な外界の記憶・知覚表象を、文脈を基準枠にして、貯蔵し正確に再現するための心理システムを最初発展させる。この心理システムの学習原理は随伴性(連合の法則)であり、適応に効果的(報酬)であった刺激と反応結合を条件づけ学習として獲得するものである。それ故、この学習は孤立的・断片的にならざるを得ない。しかもこの学習は他者に伝達する必要性を持たないものである。
 1歳になると、子どもは、ある一つの刺激に対して複数の表象を作り上げるようになる。すなわち、知覚表象ばかりでなく、それに加えて、関係表象・抽象化した表象を作るのである。また、複数の刺激が単一の表象(例えば、イヌもネコも動物)で間に合わせることもする。また、複数の出来事を規則・法則化することでまとめ上げ、規則・法則・公式として記憶することも始める。
 究極的には、外界を抽象し変換し“意味”として記憶(transformation)し、個々の現実に合うように意味から再構成・合成・計算して現実行動を作るという心理システムを発達させる。これは人間が人間として生きるために必須のシステムであり、親の不断の働きかけが無ければ形成されないものである。そしてこのシステムが言語の獲得を準備する。言語が人類の文化遺産とすれば、このシステムもまた文化遺産であると言える。つまり、人間は事象を意味として貯蔵し、意味から現実の行動をその場その場の文脈に合った形で、作り出すのである。しかし、チョムスキーを初め多くの発達心理学者は、言語獲得装置(子どもの側の)・言語獲得援助装置(親の側の)が生得的なものであると主張する。一方、他の者は、文化遺産の側面を強く主張する(Bruner)。此処では、言語獲得装置が生得的か否かを論議するのではなく、意味変換システムを作り上げるに効果的な子育て法を検討する。
 スターンは、affect attunementという概念を提起し、親はいつも単一の刺激と単一のeventに対し複数の表象を成立させようとし、かつ、複数表象の統合化、階層化をめざす働きかけをしていると主張する。
・共通感覚:コップを床に落とすと、コップの割れる音(聴覚)と割れる様(視覚)と手を離した(運動 感覚)とコップを持っていた感触(触覚)の統合的な知覚を同時に体験する。彼はこれを共通感覚(amodal perception)という。親は子どもがamodalに知覚しているときに、個々の感覚表象を形成させると共に、事態全体を表す共通感覚・抽象化された概念を形成させるためのコミュン・やり取りを子どもと行う。コミュニケーションは当初、同じことを繰り返す即ち、模倣、再現という形式で行われる。親の模倣行動を繰り返すことで、子どもの模倣行動を引き出そうとするのである。強調・増幅・縮減を通しての複数の構成要素に分割する、一部要素を突出させる。バリエーションをつけるのである。
・情動調律:第2にスターンは、親が子どもの行動の模倣を行う際に、感覚モダリティを違えて行うこと(身体表現を音の変化で、音声を身体表現で、玩具を振り上げて降ろす動作を音声表現で)に注目する。 彼はここで、affect attunementという概念を提起する。即ち、情動調律とは、違う表現が同じ感情 的意味を示していることを教える。子どもがまだ意味表象を持たないとき、 感覚モダリティを越えた 同一性、即ち、音楽要素(リズム・強度・強度の包絡線、ピッチ、テンポ)の同一性が意味の代用品と して用いられる。
・欲求を持つと言うこと:「のどが乾いた」ホメオスターシスの乱れ、不均衡化に気づく→水を飲むとの どの乾きは癒された経験を思い出す。「水を飲みたい」つまり、欲求になる。水を飲むためには、お母 さんに頼むしかない、お母さんは今洗濯をしている、泣いてみよう、こっちを向いた、近寄ってきた、 水を飲みたいと伝える(感情発現、ジェスチャー、視線で)、伝わった、嬉しい、飲んだ。この一連の 行動の背後に「欲求」は貫徹していることを、欲求を持つという。伝わらないとき、表現を種々に変え てみる、「欲求は同一だが、表現は変わる」を経験する。

 再構成システムが形成されると、コミュニケーションは心の中にある意味のやり取りという形式になる。コミュニケーションが可能になるには、相手は自分とほぼ同型であるとの認識が必要である。少なくとも意味をある部分共有していなければ意味でのコミュニケーションは成立しない。言い換えれば、コミュニケーションの相手が「こころ」というものを持ち、こころは意味システムで運用されており、それゆえ、「こころは直接的に把握できず、推論するしかないという信念を万人が共有している」という考えとそれに基づく心理システムを子どもに獲得させることがコミュニケーションの基盤となると言える。
 このように考えると、教育の目標は、「自分で分析し、合成すること、規則・ルールのレベルで把握し、毎回、再構成すること、ピアノは聞いて覚える(模倣)のではなく、譜面から構成すること、世界に関する知識も、規則・法則のレベルで把握し、世界を再構成できること」になる。ここでも反復が大事といえるが、しかし、この反復は、チョムスキーの言う深層構造から表層構造を導きだすことの反復として行われるのであり、表層構造は毎回新しく(再)構成されることが重要となる(発話文は毎回新しく作られるのであって模倣ではないとチョムスキーは言う)。自分が表現したいことがうまく表現できないとして、何度も何度も言い換えてみる、もしくは、相手に通じるように表現を変えてみることを繰り返すのである。
(この項続く、いつの日か!)

。.最後に
私たちは、白井園長と共同して、来年から藤幼稚園に障害児クラスを作り、統合保育を行う予定である。健常児と一緒にいるだけで障害児は不安と恐怖に怯え、緊張している場合が多い。発達を促すには、「最も制限の少ない環境で自由に振る舞う」ことを園と教師が保証する必要がある。安心できる環境・抱っこされた環境・味方がその子の周囲に居ていつでも援助を求めることのできる環境が用意されなければならない。確かに、統合保育によって、健常児が学ぶことは多い。しかし、真の意味で、統合保育の現場が、障害児にとって有効だと言えるには、何が必要かを探っていかなければならない。そこで、私たちは、健常児の立場ででは無く障害児の立場で、統合保育の意味をを探ること、障害児がその子なりの幸せを獲得できるような統合保育は存在するのかという問題を解いていくことを当面の課題としたい。