3. 発達障害の療育と辺縁系制御
 発達障害とは大脳回路網構築とその機能化の順次的発達の不全である.辺縁系制御による適応行動の反復が大脳回路網に機能を与え,整備をもたらすという仮説(機能コピー説)に基づくならば,発達障害児の早期療育は,辺縁系制御のもとで学習・経験の蓄積(局所的特定的モジュールの形成)から始めなければならない.この視点は脳性麻痺のリハビリテーションの考えと一致する.脳性麻痺のリハビリテーションの近年の飛躍的改善は,原始反射に注目し,原始反射機能の反復使用による修復・強化から始め,原始反射が適応的に機能した段階で,皮質による原始反射の抑制機能を活性化させる技法の開発に依存している.傷ついていても何とかして原始反射を引き出し,反復使用による安定化(consolidation) をもたらし,その後に,初めて大脳による抑制的制御を可能にする療育が重要なのである.この順序性を守ることがその秘訣となる.このような脳性麻痺療法に関する見解は,我々の上記の仮説と一致する.そこで,我々はこの辺縁系制御による適応的生得的行動の反復により大脳回路網の整備・機能化を行うということを指針として療育プログラムをたてたい.

3.1. 辺縁系制御における学習について
 まず,辺縁系の学習原理が随伴性であることに注目したい.条件づけにおいては,生得的な無条件反射(UCR)を前提とし,無条件反射を生じさせる無条件刺激(UCS)と信号刺激(CS)を同時提示する手続きをとる.CSとUCSの反復提示により無条件反射を引き起こすものが無条件刺激から信号刺激に取って替えられるのである.注目すべきことは新奇な信号刺激と生得的反応・反射とが新しく連合することであり,同時に無条件刺激と新信号,そして文脈として周囲に存在する諸刺激との間にも刺激間連合が成立することである.大脳にはこの時,感覚系連合領に刺激処理回路の複雑化・精緻化・効率化されたものと刺激間連合(各刺激表象と刺激間連合を貯蔵する表象)と,そして運動系と小脳に種々の運動回路の精緻化・複雑化,効率化されたものが貯蔵される.辺縁系は情動を伴う適応行動の解発と収束を独立して行うと共に,大脳への回路網の構築に必須な神経化学物質を供給し大脳回路網の整備を促進させる(林1994).
 発達障害児,とりわけ,自閉児に条件づけ原理に基づく行動療法が効果的であるのは良く知られた事実である.これは彼らが用いる学習原理が随伴性であり,内的表象の操作による学習,思考(因果的思考,言語を用いた思考等)は未だ困難であることによる.ちなみに,内的表象の操作は差し迫った緊急の対応を必要としない環境,ゆっくりと考える余裕のある環境(文明環境,戸田)に個体が居る時に行うものであり,考え出した仮説をこころの中で検証し生き残った仮説のみを実行する姿勢・態度が形成されたときにのみ可能となる(古塚1987).自閉症児は緊急性の高い環境に居ると信じていることが,行動療法の効果性を保証しているのであると思われる.このことはSchoplerのPEPを始めとする行動療法に基づく教育プログラムの多彩さによって裏づけられている(梅津,1975).しかし,近年,これが批判されるようになったのも,このプログラムが大脳制御移行を達成した障害児にも依然として適用可能とする点にある.(太田と永井,1992).高機能自閉児には行動療法に加えて,大脳制御に依存した教育(言語,表象を用いた)がより重要であると我々は考える.
 話をもとに戻し,辺縁系制御下での学習の特徴についてのべる.随伴性原理(条件づけ)による学習は個別的で孤立化しており,文脈依存性(緊急状況対処行動故に)が非常に高いという特徴を持つ.またそれは外部刺激が存在している時(入力中)に,外部刺激を操作しての学習であるとも言える.それゆえ,刺激が無くなると学習は不可能になり,かつ,場面・状況・時間を含む当該刺激をとりまく場面構造(文脈,状況)が少しでも変わると先行学習を利用し得ない.言い換えれば,般化し得ない経験の蓄積にすぎない.学習場面の,他者による,高度な構造化が,随伴性原理に基づく学習を効率的にするためには必須であるといえよう.また,それはあくまで外部刺激との連合であって,内部表象の操作による学習にはなり得ないことに注意を要する.また,緊急事態発生時に典型的に生じる情動の活性化と収束を随伴しなければ学習は生じないことにも注意を要する.辺縁系制御下の学習が場面依存性と,刺激と外部環境依存性とが高い学習であるということは内部表象と長期記憶を用いて行う大脳制御下の学習とは対照的である.TABLE4.は大脳制御と辺縁系制御における学習形態を比較するものである.
ここで,注意しておかなくてはならないことは,(1)療育場面の構造化は両制御における学習原理の違いを考慮して行うこと,とりわけ,療育の初期においては,辺縁系制御を想定しての構造化が必須である.この状況での学習が進展するにつれて,異所性投射を含む辺縁系と大脳各部位の過剰結合回路を通じて大脳に回路を構築するのである.

3.2. 辺縁系制御そのものの不全
発達障害児の中には,脳性麻痺とは違った意味で,原始反射,生得的本能行動(無条件反射)の障害を持つものがいる.また,辺縁系における入力過程の不全も存在する可能性が存する.例えば,無条件反射が過度に鈍感,または,過度に敏感に反応すること,報酬が得られた環境に存する複数の刺激の中から信号刺激を選択し抽出するプロセスの異常などが考えられる.我々の症例でも,掃除機の音に過剰な恐怖反応を示した例,耳の近くで風船が割れても定位反射が生じない例,お腹が空いたことを自覚しえない等,覚醒興奮レベル制御の未熟(日下,1994),寒さに鈍感だった(冬になってもビニールプールに入っている,内田,1994),子どもの表情から内部に生じている感情状態が読めない,間違った表情をする(笑いの表情が苦虫をかみつぶした表情)(古塚,1989),ウンチを出す筋肉の使い方が分からないが故の便秘をもつ例(現在,セラピー中の2歳児),気分が良くなると攻撃的になり,親は怒っていると判断した例などがある.
Cichetti(1990)はダウン症児が低緊張で表情を制御する筋肉がゆるんでいることから,本人が緊急信号として泣いても,親はさし迫っていないと判断してしまう例をあげている.原始反射,生得的本能行動が未成熟,損傷を受けている場合,親との相互作用に困難をもたらす.例えば,上記の便秘で悩む2歳児では,この子が大泣きすると殆ど,「便秘で,辛いのだ」と判断し,寝かせて,おむつをとり,ウンチを出させようと親は努力をした.乳児期当初は正解であったが,大きくなるに従ってこの子の大泣きもまた多様な意味を持つに到ったにも関わらず,我々の所に相談に来るまで,この固定的判断を繰り返していた(この子の親は,セラピー場面で,この子が多様な要求を持っていること,それを泣きで訴えていることを示唆され,現実に他の対応によって大泣きが停止したことを観察した後,変更した).この様に,辺縁系制御不全がもたらす最も大きな困難は親の養育行動および養育動機を壊すことである.親が我が子に愛着することができるのは,子どもの姿の中に「自分を見る」ことが出来ることにあり,その子が理解不可能で,「諦めざるを得ない(私のようになり得ない)」と思ってしまうと,心理的に養育放棄になってしまうのである.「この子は何でもできるようになる,基本的に私と同じ人間だ」と思いこむことで親は種々の心理的なレベルの働きかけを行う気になるのである.具体的には,子どもの応答行動に対する評価・帰属・意味づけを返すという親の仕事がおろそかになるのである.Schoreは親のこの仕事を”NOW PRINT!(これが重要だ!)を指示することと述べている.
我々が強調したいのは辺縁系機能不全は,第二に,大脳回路網構築を未成熟,または,ゆがませることである.生体は誕生初期においては大脳感覚系回路の適応的整備に集中しておりその回路は臨界期にあると言える.回路網の整備は適応的本能行動の繰り返し(成功体験として)によってしか遂行されない.成功体験を得るのに容易でない発達障害児は,それゆえ,感覚系に環境刺激の脳内対応物(representation,一次感覚表象)とりわけ,感覚連合領に単純細胞・複雑細胞・超複雑細胞(Hubel and Wiesel,1979)を形成することに困難を持つといえる.デラカート(1981)は自閉症の感覚異常(敏感すぎる,鈍感すぎる)を指摘し,大脳における感覚系の異常と捉え,感覚訓練を提唱している.しかしながら,我々の機能コピー説では,感覚異常解決のための療育は感覚訓練ではなく,適応的本能行動での成功体験の反復であると考える.
辺縁系機能不全の第三の影響は,一次情動そのものの表出が少ないことである.この表出の少なさが親のNOW PRINT! 表現を少なくさせ,一次情動がもたらす感情状態(自律神経系の反応等)への「気づき」を遅らせたり,解離させることである.症例R(TABLE 1.)は,他者(姉)の感情状態の推測・確認行動の反復の後に,自己の感情状態への気づきが生じている.そして,この課題達成には家族の献身的な関わりが必要だということがよく解る.
辺縁系機能不全の第四の影響は,恥・罪悪感・プライドを含む二次情動の形成を困難にすることである.二次情動は辺縁系制御から大脳制御に移行した後に成立する表出であるから,それは,大脳回路が次の感情状態を先回りして決定できる状態での感情プロセスの産物と考えることができる.以下に感情発達経過にそって論じる.

3.2.1.覚醒・興奮レベルの制御
我々の経験では,辺縁系制御機能不全を持った障害児は第1に,覚醒・興奮レベルの制御に不調をきたす. Stern(1985)が指摘するように,覚醒興奮レベルの親と子の共同制御(情動調律)の過程に自我の核部分の形成があるとすれば,制御困難が長く続くことは発達にとって重大な問題を生じさせる事になる(学習性無力感).加えて,親にとっても,覚醒・興奮レベルを制御し得ない経験を長期間継続することは親の養育放棄,無力感につながると言えよう.発達障害児療育に関して,興奮覚醒レベルの適正レベルの維持するための他者制御が,健常児にも増して,より重要であると言える.それゆえ,養育者・介入者が訓練を受けて,興奮レベルを適切レベルに維持する技法の獲得することが療育の主要課題となるのである.我々は,私と当該児のやり取りを親が観察できるように,セラピー室の隅にじっとしていてもらい,子どもの状態を逐一説明し,対応の仕方を伝授する方法をとっている(具体的療育実践については松居,1999).

3.2.2. 情動表出の促進と情動状態への気づきの促進
辺縁系制御不全を示す障害児の第2の特徴は,情動表現の少なさと未分化と間違った情動表現である(我々が今セラピー中の小学6年生の高機能自閉症児は,課題を提示すると無表情になり,あくびをし,筋緊張が緩んでいるように見える.しかし,心拍率を測定すると120前後であり情動状態としては興奮レベルの上昇とを示すにも関わらず,低下を示す感情表出行動を示した).セラピー当初殆どの自閉症の子は無表情であり,こちらの感情表現に共感的に表情を変えることをしない.しかし,家庭でのビデオ撮影を見ると,彼らは一次感情については表出していることが分かった.しかし,彼らは自分の感情状態に気づいていない.そこで,我々は,セラピー場面で,こちらが感情表出を豊かにする作戦を採ることにした.すると,彼らも,時に,つられて表情を出すのである.そして,その表現に注目し,「今,笑った」等と名前づけし,社会的報酬を与え続けることにした.すると徐々に,自己の感情に対する気づきが見られると共に感情表現の分化が促進され,間違った表現が少なくなったのである.                                            また,彼らは,コミュニケーション手段として情動表現を用い得ないという問題点を持つ.このことは,情動状態への気づきが成立があって初めて可能になるものである.情動を随意的に学習されなければならないものと位置づけ,情動学習させる日々の働きかけが必要だ考え実行した.この時,愛着対象(親・家族)との交流の中で情動学習させることが最も効果的である.快・不快レベルの情動表現からコミュニケーション手段として有効な微笑み,笑い,泣き(抗議の泣き,悲しみの泣き等)へと分化させる療育的努力が必要となる.また,障害児療育にとって最も効果的な場面は,不快感情に子どもが圧倒されている場面であり,そこで,親が外的制御者として子どもを落ち着かせることに成功することが最も求められているのである.一方で,子どもが不快感情を表出しているとき,その状態の解決を出来るだけ早く成立させるのではなく,その状態を長く持続させることによって,その情動状態への気づきが成立することをも考慮しなければならない(水上,1999).
情動発達のための療育:
健常児発達の6カ月までの段階では,以下のことが望まれる.
(1)生理学的ホメオスターシス機能の反復使用による安定化をめざす.発達障害児の多くは,食事障害(偏食,小食,食欲認知障害),睡眠障害,病気にかかりやすいなどの特徴を持つ.それゆえ,いつもホメオスターシスは不均衡でありそれが常態化していると考えるべきである.この段階は,ホメオスターシスの均衡は全て親からもたらされるという事実(他者制御)に注目が必要である.
(2)生理学的ホメオスターシス原理に基づく快・不快状態に直接連結する感情が表出されるようにする.初めは,親が積極的に感情表出をして感情表出に注目してもらうように働きかける.その為には,養育者の反応が感情的要素を十分に含み,乳児の特定の働きかけにいつも特定の感情反応を返すなど一貫性の高い反応を心がける必要がある.子どもは,いつも同じ反応が返ってくることに支えられて,随伴性学習原理に基づいた感情学習が可能になるのである.
(3)養育者の一貫した反応に支えられて,情動観察学習(モデルは親でいつも同じ刺激に同じ情動反応を)させる.「今,笑っている.泣いてる」を教えること,即ち,他者情動のnaming,自己情動のnamingを随伴させる.
(4)すると他者情動の確認行動,例えば,他者の怒り表現を確認するための,他の子どもへの攻撃・暴力行動が出現する.この時期の攻撃行動は,他者の情動表現の確認行動であることに注目する必要がある.これ以降,養育者との相互作用は期待・予期体系に基づいて行われる様になり,愛着対象の心内表象化が生じる.そして予期から外れた行動を養育者以外の他者がとることで不安が生じると,「人見知り」がはじまる.
(5)社会・所属集団(家族)の期待と質に順応するために感情表現の社会化が生じ,親以外でも良く分かる感情表現に変化する.この時期有効な療育は相互模倣技法である.TABLE 5.に辺縁系制御と大脳制御における感情コントロールの特徴を表示した.

3.2.3. 欲求の無さ,動機づけが困難;新解釈
 そして辺縁系制御機構の第3の不全兆候は,動機づけが困難,もしくは,欲求・要求が明確でないことである.健常児においても「要求が分からない」状態は誕生初期に存するが,生後1,2カ月で親はその子特有の要求をする.しかし,発達障害児の親にとっては,子どもの要求把握は非常に困難である.例えば,自閉児の親が生後1年まで(正確には移動が可能になる前)は「手のかからない子」で食事もおむつの替えも睡眠も時間を決めて行う(親の都合に合わせることが出来る)ことで子どもは満足しているようであり,抱いたり,声かけ等の愛着的働きかけを好まない子であったと報告することが多い.精神遅滞,ダウン症児では,要求はある程度推測可能であるが,その強度が弱く,泣いてもすぐに疲れて睡眠に入るなど,親にとって要求の緊急性が把握出来ないなどの問題点を持っている.ここでも辺縁系制御による成功的適応行動の反復が基本となる.出来るだけ迅速に報酬を与えることが肝要となる.「今すぐ」原理が作動しているのである.現状では,0.5秒以内に報酬を与えることの反復が欲求の明確化につながったという療育実績があるという事実把握に留めざるをえない(古塚,1987).

これは欲求の持続時間が短い(適正覚醒興奮レベルの保持が困難)からともいえるし,彼らが随伴性原理にもとづく学習しか可能ではないからともいえる.言い換えれば,ホメオスターシスの不均衡が生じたことのみを訴えるものでありそれを養育者が欲求ないし過剰とNamingするに過ぎない.しかし我々大人が「欲求」と言っているものは,未来のある時点で達成が確信できる目標と同義のものである.現在世界に存在しないもの(目標)を保持するには表象機能の形成が不可欠となる.障害児は表象・表象の心内操作依存的情報処理システム(大脳制御)に未だ到っていないのだから,未来に達成できることを確信しての『欲求』は大脳内での表象操作が出来なければ不可能なのである.

3.3. 辺縁系制御における記憶機能の特徴
 発達障害児は,症例Rに見られるように,注意の転導性が高く,「いま,ここに」存在する刺激全部が気になる,また,こちらの指示が通り難く課題設定の理解が困難である,経験の蓄積・記憶が効果的ではなく,慣れ(habituation)が生じにくい,または,慣れが早すぎる等の行動特徴を持つ.辺縁系制御下の生体の行動は,戸田が感情システムの論議で指摘したごとく,「いま,ここで,すぐさま」に,対処行動を行わねばならないという要請を含んだものであり,且つ,外部環境誘発的であり,好奇心・探索心など内発的動機づけ的側面いまだ,作動し得ない.言い換えれば,外部刺激によって情報処理が解発され緊急事態が過ぎ去れば,処理システムは終了するのみで,処理システムの組み換え・変更はなされない.即ち,記憶は特定の刺激表象に信号性を加えていくのみで良い.組み替えをするには,内発的に(脳内表象の活性化のみに依存して)情報処理システムを能動的に発動させ,種々の処理法を検討し最善のものを見つける余裕が状況的にも時間的にも必要となる.
一方,大脳制御下の生体は,緊急事態発生状況ではないので,時間を十二分にかけて正しい永遠の真実を明らかにすればよい.それゆえ,時間・空間準拠枠内で行きつ戻りつして想像したり考える余裕があり,多くの長期記憶と長期記憶の1時的バッファとしてのワーキングメモリーを必要とする.ヒトは長期記憶を表象として蓄え,その一部をワーキングメモリーに持ち込み,持ち込まれた表象を心的操作の対象にするのである.このことが可能になって,初めて知的になったと考えることが出来るのである.長期記憶には,外部刺激の心的対応物(representation)としての視覚・聴覚・触覚表象など感覚表象と運動表象(運動プログラム,スキル),情動表象,言語表象等(表象間連合,諸表象の統合)が含まれるばかりでなく,1回1回の出来事とエピソードの記憶が含まれている.
Tulving(1983)は前者を意味記憶,後者をエピソード記憶(主として成功例,失敗例として意味づけられた1回ごとの経験についての記憶)とした.我々は意味記憶の解剖学的領野を各感覚系連合領と言語領にあり,その記憶痕跡は知覚・認知処理の際にpercept(知覚の最終産物としての脳内表象)と共有されると推定したい.一方,エピソード記憶の記憶痕跡は辺縁系を核とする皮質下(小脳を含む)と内側側頭部,前頭前部をその記憶場所と考えたい.
 TABLE 6.はタルビングのエピソード記憶と意味記憶の特徴の分類表である.この表を見るとエピソード記憶が情動体験を核にしてその場所・その時に生じた出来事・エピソードをまるごと記憶することが出来る記憶システムに支えられていることが良く分かる.われわれは上記の意味でエピソード記憶システムは辺縁系制御の下で作動する長期記憶システムの一つであると考えたのである.ヒトは「もの」についての記憶と「人間関係」についての記憶を別の二つの長期記憶システムで貯蔵するのであろう.エピソード記憶は人間関係についての体験の記憶に優れているという特徴を持つ.なぜなら,人間関係にかかわる出来事はその時,その場で一回限り生じ,同じ体験は極端にいうと二度と生じないからである.もう一方の長期記憶システムである意味記憶は,永遠に変わることの無い”世界・外界”についての知識である.知識は初めは感覚表象として構築され,後に言語表象と連合することによって内的表象世界(外部にある世界・外界の内的対応物)を作り上げ,ヒトは内的表象世界の中で仮想的に『思考する』ことが可能になるのである.

発達障害の療育についての示唆としては,その時,その場で生じる感情体験を核にしたエピソード・出来事の記憶を多量に記憶することから始める.エピソード記憶が多量に蓄積され,その記憶の中で不変・普遍な記憶痕跡が言語表象と連合することによって意味記憶が成立すると考えるのである.TABLE 1.で述べた症例Rの記憶回復はエピソード記憶の回復が端緒であった.親の報告によれば,Rが病前に感動し大好きであった遊園地・動物園めぐりをしたところ,当時の記憶を回復し得た行動が多発し,かつ言葉の回復が顕著であった.
次に辺縁系制御期の記憶について考察してみよう.この時期,長期記憶としての意味記憶は未だ成立していない.それゆえ,生体は外界にある刺激入力に支えられ活性化を維持している感覚表象を短期記憶に登録し,短期記憶の内容を参照して中央装置は情報を処理し,適応的行動を決定する.そして,成功的に終了したときには陽性の感情体験と共に,失敗したときには陰性の感情体験と共にエピソード記憶として貯蔵するのである(発達障害の療育実践から考えると,成功したときにのみ記憶に貯蔵される確率が高いという印象を持つ,行動療法でもこの印象は述べられていて,シェイピングによる成功体験のみの反復が効果的である.
意味記憶成立プログラム:大脳制御期には,意味記憶が成立し,そこから外部刺激から独立し得た表象(言語表象,心的表象)を短期記憶に登録し,中央装置は仮説演繹的に心的操作を行えるようになる.そして,未来を予測し得るし,期待・目標をもてるようになる.また,同時にエピソード記憶もそれに付随して生じているのである.つまり,エピソード記憶は早期に機能しているが,意味記憶は感覚連合領の機能化と言語表象成立の後に生じると考えることが出来る.それゆえ,療育においては,エピソード記憶の豊穣化を先に行い,その後に意味記憶の成立を促す働きかけをすれば良いことになる.次に仮説的だが記憶の発達と表象機能促進プログラムを提案したい.
記憶の発達:フラッシュバルブメモリー?即時印刷機構(感動時)?エピソード記憶(時間場所等文脈依存メモリー?宣言的記憶・意味記憶(非文脈依存メモリー)ー意味ネットワークの構築
    
表象機能の発達促進プログラム: 現前2刺激同士のマッチング?naming(現前刺激と内部表象のマッチング)?delayed matching?内部表象間のマッチング,関係づけ.表象は大脳に存在する.表象の外部刺激依存性を少なくすることを心がける.表象間.連合を目指す(リリーサー間連合,遅延反応状況の利用など). TABLE 7.に大脳制御期と辺縁系制御期の記憶の違いを要約した.
5. 辺縁系制御と大脳制御の切り換え
愛着が成立する1歳までは辺縁系制御システムが優位であり,養育者による状況の構造化を行う中でこどもの随伴性理解を促進すべきである.その後は,徐々に大脳制御システムが浮上する期間が増えてくると考える.
子どもは場所・状況が危険ならば,そして,相手が見知らぬ人あるいは敵ならば,辺縁系制御で情報を処理し,状況が安全で,相手が愛着対象あるいは味方ならば大脳制御の下で情報を処理するのでは無いかとおもわれる.Minskyはこのことを以下の様に述べている.

子どもが何かをして遊んでいる時,知らない人が現れてお説教をはじめたとしよう.するとその子は怖がって,あわてて逃げようとするだろう.しかし,同じ状況で,お説教を始めたのがその子の親だったら結果は違ったにちがいない.子どもは怖がるかわりに,悪いことをしたんだと恥ずかしくなり,逃げるかわりに,親の心証を良くしようと思って他のことをはじめるだろう.見知らぬ他人の場合と親の場合と,この2つの話には別々の学習メカニズムが関わっている.つまり,見知らぬ人の場合に,子どもが学習するのは「このような状況では,今やろうとしている目標を達成することは諦め,逃げるほうがよい」.一方,愛着対象に叱られた場合には,「今やろうとしていることは悪いことだから目標を達成しようとしてはいけない」ということを学習する.(ミンスキー『心の社会』安西祐一郎訳 <17-2 愛着による学習> P273 )

下線部分を,見知らぬ人が存在する状況では辺縁系制御(感情),親へは大脳制御システムが活性化していると解釈する.すなわち,親を含め味方がいる安全な環境(文明環境)では,親の価値観・人生観・人生の目標を自己のものとし,目標を達成するための方法・知識・態度を学習するのである.そして,見知らぬ人を含め敵がいる環境では,自己の生存を維持することに汲々として,今保持しているシステムを総動員して対処する(接近か回避か)のである.それ故,発達を成し遂げる為に不可欠な,今保持している心理システムを解体し,修正し,更新することは危険なので行わないのである(発達とは既存システムの解体・修正であり,新システムの構築である!).当然,知識・方法・態度を学習することはあり得ない.子どもが発達する為に新しいことを学習するには,失敗が許される安全な環境,即ちそこが戸田の言う文明環境にいると子どもが信じていることが不可欠であると言える.加えて,愛着対象と一緒にいて,失敗してもフォローしてくれると信じることも不可欠である.
 このことは,セラピーを行う際に非常に重要な事柄である.セラピーの場を安全な「文明環境」にすること,セラピストが「味方」であるという確信を子どもが持つまで,誠意を尽くし続けることが望ましいのである.
ミンスキーは小さな子どもは次の三つの違った学習方法を持っていると言う.
失敗や成功を示す信号が普通の場合には,目標に到達するのに使う方法が検討される.今すぐに危険にはならない文明環境では知識と方法とメタ認知的なものが学習される;大脳制御で意味記憶が大脳に.
恐れを引き起こすような妨害的な信号の場合には,状況の記述そのものが修正される.緊急の対応をしないと危険である野生環境では,今,しようと思っている目標を諦め,状況を把握し直し,手持ちの武器で,正しい対処法を考えることに専念し,自己の内部のものを改変することはしない;野生環境で,辺縁系制御の下で,随伴性原理で,信号の獲得とエピソード記憶が感情による評価と共に.
失敗や成功を示す信号が愛着に関連している場合には,どの目標が追求するに価するかということが修正される.愛着対象が味方であり続けてくれるように自分の目的・価値観・人生観を修正する.辺縁系にも大脳にもエピソード記憶も意味記憶も

以上のことをいつも念頭に置き,今どちらのシステムが作動中かを判断することが重要になるのである. とりわけ,1歳以降には,辺縁系制御の下では意味記憶の蓄積はもとより,学習によって意味記憶が形成されないということに注意すべきである.

 我々の最近の療育経験から得られたことを列挙する.
初めの数回のセラピーでは,彼らは快感情の表出が少なく,無表情か不快感情がわずかに見られるのみである.? 彼らは,事態・状況を危険で緊急性の高い反応をしなければならない「野生環境」にあると考えている.状況は安全で,セラピストは味方だと思えるように配慮する.
快感情の自発(spontaneous smile,思わずニヤリと微笑む)を起点にして,反応性が上昇する.? 彼らは安全であり,味方だと考え始めた.しかし,まだ,今使用している心理システム(辺縁系システム)を停止させるにはまだ危険であると考えている.
出来るだけ長く“JOYFUL(楽しい状態)”を維持すること,興奮レベルはいつも声が出ている程度の「少し高いレベル」を維持するように働きかける.楽しむことができたセッティング・玩具を記録しておき,次回のセラピーは,そのセッティング・玩具で遊ぶことから始める.楽しむことが出来た玩具の数が増えてくると,集中時間が長くなる.そこに居る人への関心が薄れはじめ,「もの」への関心が高まる.安全で,失敗が許される「文明環境」にいると考えている.
l 次に,「思い通りに行かない」時に,セラピストへの“HELP”が生じる.瞬時に,HELPに答え続けることで,セラピストが必要不可欠な人という認識が成立するようにする.? 人を「仲良しの人」と考え,その人に愛着し,その人に依存し始める.甘えが出てくる,愛着対象に「生き抜く」ための全権を預ける.愛着対象(セラピストも)は援助活動に専念し,成功し続けなければならない.
l この後,セラピストへの攻撃が生じる.? 自分の思い通りに行かないとき,愛着対象が失敗したら,子どもは怒り攻撃する.
l やり取りの中で,「おふざけ,いちびり,他者に笑われる行動を好んでする等自己顕示的行動」が出現する.? この振る舞いは緊急状態で学んだ行動を,安全な文明環境で繰り返すことにより,両環境での経験を統合する機能を持っている.
l 次に,出来ないにも関わらず「自分で,自分で」と主張し始める.この時は,子どもが失敗し,援助を求めてくるまで見守る姿勢・態度がセラピストに求められる.
これらのことは,(1)子どもはセラピー場面を危険な緊急事態であると把握している.辺縁系制御が優勢な防御態勢にあり,敵だと見なしているセラピストの前では自己のこころの内容・感情を見せないようにしている.(2)快感情に溢れた状態はセラピー場面を安全だと判断し,セラピストを味方だと考え,セラピストとのやり取りから学習することが出来るようになる.このJOYFUL状態を長く持続させ,快感情の表出が多くなることが子どもの発達を促進する秘訣であるといえる.
このように考えると,成人になってもヒトは場所・状況と相手によって,大脳システムと辺縁系システムをすばやく切り換えて対処していると言える.
 6. 終わりに
本論文は以下の目的を達成したいが為の私論・試論である.
「いまこの子が出来ることを十全に行い,楽しむことが発達につながる」という考えを貫き通すことのできる療育理論を構築することが出来たら,療育者,障害児とその親にとって最も幸せに療育経過をすごせる.少なくとも,「出来ないことを悩み続ける」よりは幸せである.この発想を進展させるには,障害児が今出来ることの内部に存する情報処理機構の詳細な分析が必要になる.これは療育現場の具体的実践的資料を豊富に収集することが原点となろう.しかし,現在のところ,これらの資料収集が示唆するものは,障害児の記憶が「エピソード記憶(体験)」の集積にしかなりえず,「意味記憶」とはならないのである.それゆえ,本論文は単なる空想にしかすぎないという批判を頂くことが妥当である.
最後に言いたいこと,それは「ヒトが日常生活を地道に行うには,辺縁系制御のみで十分ではないか」と思われることです.




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