ハッキリ会とは

日本の戦後責任をハッキリさせる会(ハッキリ会)
戦後責任、戦後補償を課題にネットワークによって実現しようと活動するグループ
 

 戦後補償の活動をつづける「市民グループ」。
 フリーランスのジャーナリスト・臼杵敬子(うすき・けいこ)が呼びかけて、戦後責任をあきらかにし戦後補償実現のため、1990年に東京で結成された。初めは知人友人数人のジャーナリスト、会社員、編集者などが集まって始動した。国の元日本軍人・軍属、徴用者、遺族たちが日本の戦後補償・援護から切り捨てられていること、そればかりか遺族に対し生死について通知もされていない、遺骨も返されていない、現地追悼の機会もない…戦後補償はまったくなされていない事実に驚き、「何かをしなければ」と活動を始めた。被害者たちの実態や訴えは、いつも直接、韓国から伝えられた。
 韓国から太平洋戦争犠牲者遺族会から幹部が来日し、日弁連に「人権救済」を訴えたり、代理人弁護士のつかない提訴などが行われた。臼杵敬子が主体になってその手伝いをする経緯があって、1990年12月発足集会を開き、日本の戦後責任をハッキリさせる会と称することにした。

 韓国・遺族会提訴 その後、サハリン残留韓国人の問題などに取り組む高木健一弁護士や有志弁護士らの協力を得て訪韓、韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会会員の聞き取り調査を繰り返していく。日韓条約・協定で「解決ずみ」とされた韓国人の被害者たちの「未解決」の実態を明らかにしていった。
 1991年夏から、元「慰安婦」の名乗り出もつづいた。
 95年の「戦後50年」をひかえて、ひとつは日本の裁判所に司法判断を求める訴訟を選んだ。原告41人(追加提訴含む。のち40人)で「アジア太平洋戦争韓国人補償請求」訴訟を、東京地方裁判所に行ったのは91年12月6日だった。(当初原告35人、92年6人追加。)この提訴はマスコミでも大きく取り上げられた。
 以来、この裁判遂行、全国各地での証言集会、政府・国会への働きかけ、マスコミ、社会への問題提起をつづける。「ハッキリニュース」を出し、冊子タイプの「ハッキリ通信」を発行。会員は全国に広がっていった。裁判の口頭弁論のたびに、個々の事実を裏付けるため、防衛庁戦史部や戦友会などの資料調査などに取り組んだ。そうした地道な活動と、デモや集会、座り込み、またコンサートのような仕掛けを組み合わせていった。

 ネットワーキング ハッキリ会は、戦後責任・戦後補償を課題にして、個人参加の活動グループとして機動的に動いてきた。代表はおくが、いわゆる知名人を幹部に並べたりしていない。事務局は毎週木曜日に集まるメンバーで会議。つぎつぎに行動を起こしていった。集会、デモ、座り込み、政府・政党・国会議員への働きかけ。名古屋、大阪、神戸、九州一円、北海道…と証言集会をつくっていった。ハッキリ会独自に、また韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会からの来日メンバーとの共同行動を重ねた。臼杵敬子は韓国語を自由に話せる。ほかにも韓国語に長けたメンバー、マスコミに強いメンバー、ニュース編集や出版になれたメンバー、食事や自動車運転に自信あるもの、行動での韓国・遺族会の世話をするもの、とにかく動きの早い学生たち…とネットワークをひろげていった。

個人参加よるネットワーク〉 ハッキリ会の集まりの特徴はこれだ。組織や思想信条を問わず、規則や出席・参加の義務化もない。ハッキリ会はゆるやかな個人が連携する集まりとした。これが、自然に了解事項となった。年間最大数百万円にもおよぶ出費はニュース購読会員の会費、カンパでまかなわれている。随時会計報告をし、各地で開く集会はそのネットワークの現地メンバーが主体となってつくられた。
 やがてフィリピン「慰安婦」裁判、「在日」「慰安婦」裁判グループとネットを組み、それを基礎に多くのグループが集まる「戦後補償ネット」もできていった。集会、デモ、座り込みなどや国会への活動、補償立法や市民募金の構想も1994年までに提起していった。独自の活動とともに自在な共同行動を行ってきた。

 被害者たちとの顔の見える関係 韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会裁判の東京地裁での口頭弁論は30回数回を数えた。口頭弁論は年に3回、いつも月曜日午後1時半と定例化。具体的な課題に具体的な成果を引きだすため、訴訟での原則的訴えとともに、事実の提示・認識、協力者の拡大、なにより政治政策での前進を政府・国会に働きかけてきた。厚生省(現・厚生労働省)での代理委任による生死確認を可能にし、法務局への供託金の存在を明らかにするなど政策的な対処を政府から引きだしてきている。
 発足10年を迎えようとしているハッキリ会は、「支援」と「学習」のセットで、一対一の韓国側とのつきあいを大事にしてきた。「個人参加」「自己責任」を軸にすえてきた。「戦後補償」という課題を通して試行錯誤しながら、事実を問い、歴史を問い、それぞれ自分の責任を問いながら韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会、原告・被害者たちに結果を出していくネットワーキング活動を根本にしている。
 被害者たちとつきあいながら、その要求に対して日本で答えを出すために、ハッキリ会は独自に活動してきた。

 裁判は一つの軸 韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会の補償請求裁判は、2000年1月31日第33回口頭弁論で結審を迎えた。東京地方裁判所で開かれたこの法廷には、同遺族会のキム・チョンデ会長、ヤン・スニム名誉会長を始め原告たち17人が来日。元「慰安婦」、軍人軍属、遺族のそれぞれ代表が最後の弁論、また代理人高木健一弁護士らが最終弁論に立った。ほかに国会議員への要請、政府への要請活動を行った。
 2001年3月26日、東京地裁はこの訴訟に棄却の判決を下した。韓国・遺族会と弁護団、ハッキリ会は一致して4月6日東京高裁に控訴している。
 ハッキリ会はこのように、裁判を軸に、韓国人、そして外国人戦争犠牲者への戦後補償実現のため活動している。人道的、道義的、法的な訴えにより日本(政府)による個人補償を求め、裁判法廷とともに、政府、国会、マスコミなどに働きかけを行っている。
 



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