元「慰安婦」被害者は「基金」をどう受け止めたか

 フィリピンの元「慰安婦」マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんのインタビュー。
 このような心情、判断を尊重してこそ、支援運動は方向づけられるのではないか──。
 (ヘンソンさんはこの1年後、97年、死去した。)


 

■マリア・ロサ・ヘンソンさんについてのメモ

 フィリピンで「慰安婦」にされたマリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんが、初めてアジア女性基金の「償い金」などを受け取ったのは、1996年8月14日のことだった。(直前『東京新聞』はヘンソンさんのインタビューを掲載=

 マニラ市内のホテルで、ほかの3人と一緒に受け取り、記者会見には1人を除き、3人が出席した。ヘンソンさんは、声は低いが、しっかりした口調で述べた。
「いままで不可能と思っていた夢が実現して、たいへん幸せです」
 アナスタシア・コルテスさんがつづけた。「50年以上がまんし苦しんできたが、いま正義と援助を得られて幸福に思っています」
 同じくルフィナ・フェルナンデスさん「きょうみなさまの前に出たのは、総理の謝罪を得られたからです。感謝しています」
 これで日本を許すのかと記者から質問が出た。ヘンソンさんが答える。
「1992年に名乗り出てから何度も許すのかと聞かれたが、許したと答えてきました。なぜなら、そうしないと、神様が自分を許さないと思うからです。しかし裁判はつづけたい」
 デモに出たり、裁判で日本に行くのはもう止めたい、といって、ヘンソンさんは「静かな生活」を望んだ。
 9月、ヘンソンさんは橋本総理に手紙を送ってきた。
「おわびの手紙そしてアジア女性基金からの償い金、これは日本の市民の方々からものでありますが、これらをいただいたからこそ私たちは余生を幸せに暮らすことができるのです。私の国の政府もあなたのことを歓迎しています」
 「総理の手紙」を額に入れていると伝えられた。受け取った「償い金」で家を改修し、病院で身体の検査を徹底して行った。
 別の受け取ったロラの一人は、息子がタクシーとして稼ぐサイドカーを買い替えた。カネでなく、そうして自分で暮らしを立てるようにという親心だ。彼女はまた、稲作をする近くの農民に種モミを確保するためのお金を貸した。利息をとるのではなく、収穫した米で納めてもらう方式をとった。
 大金をなぜ送るのかとか、たったそれだけか、「民間」のカネに意味はあるのかといった批判が周囲にはある。だが、本人たちには、このように、日々の暮らしに役立っていることもたしかだ。
 ヘンソンさんは「許す」といった。しかし辱めをうけた当時、彼女は「正気は失えないと自分にいい聞かせた。闘おうと思った。日夜、自分の心が機能するように努力した。頭脳が考えることを止めないように努めた。狂人にならないように、あらゆることを記憶することを身につけた」(1996年11月12日付『ニューヨークタイムズ』)
 受けた傷との闘いの一端が読み取れることばだ。
 その上で、彼女は、述べている。
「50年前に起きたことについて、もはや自分の尊厳を回復することはできません。山ほどカネを積んだとしても戦争の恐怖に報いることはできません」(前出『ニューヨークタイムズ』)

 ヘンソンさんは1997年8月18日に亡くなった。69歳だった。アジア女性基金から「償い金」などを受け取ってから1年を超えたばかりだった。その葬儀に「基金」からは有馬真喜子副理事長(当時)と事務局員が出席した。
「正義」を求める、と彼女がいっていた訴訟に対する判決が1998年10月9日に出た。訴えの「理由がない」との判決だった。

(アジア女性基金「「従軍慰安婦」とされた方々への償いのために・2」所収)